お知らせ

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2016年6月18日土曜日

阿智村の満蒙開拓平和記念館をたずねた

中国残留孤児が社会の話題にならなくなって久しくなりましたが、以前から気になっていた長野県阿智村にある満蒙開拓平和記念館への見学ツアーを実施すると、案内が「もうひとつの歴史館・松代」から届いて参加してきました。


阿智村までは、上信越道、長野道、中央高速を走って200km、3時間ほどの所要時間。
飯田山本インターで降りて、153号線(三州街道)を豊田方面へ走り、左側に農協スーパーがある春日交差点で左折。 あとは案内板をたよりに右に回り込むような感じで走ると、やがて記念館に到着します。 手前に下水?の浄化センターがあったような記憶。


駐車場と記念館の間に、「平和友好」と「鎮魂」の石碑が立ち、「平和友好」と書かれたボール型の下には、「前事不忘・後事之師」と刻まれていました。 あとでガイドブックを見たら、「過去を忘れず、明日の教訓とする」という意味だそうです。


展示スペースはそれほど広くない記念館ですが、木曽杉を取り入れた建物とのことで、造形美にあふれているように感じました。
掲示されている文面や絵、写真を見ていると、それだけで分かったような気になってしまいますが、ガイドの方の説明を聞くと、当時の人達の思い、何故敗戦間際になっても満州にわたらなければいけなかったのか、如実に理解できるものでした。

そしてセミナー室では、10歳で両親に連れられて渡満し、敗戦で孤児になるも、教会の神父さんに助けられて帰国されたという方が語り部として、当時の満蒙開拓の様子を話してくださいました。
満蒙開拓団は当時5円(今の2万円位?)で地主を追い出したり、使用人として雇用することもあったそうです。 敗戦時は関東軍の日本人兵士達は開拓民を置き去りにして遁走し帰国。 その頃の開拓団は、男子は兵隊にとられ、年寄りと女子どもだけ。
敗戦を境に満人や女真族と言われる地元民から、また、進軍してきたロシア軍からも狙われ、残された年寄りや女子どもを中心に、開拓民は捕虜となったり殺されたそうです。
やっとの思いで帰国できた開拓民は少なく、しかも分村などで故郷には帰ることができず、あらたな開拓地を探したとのこと。

満蒙開拓団は、地元民から搾取するという加害者であり、敗戦後は日本国から見捨てられた被害者であり、なんとか帰国できても、その被害は続くのでした。
語り部の方の話し方は朴訥として、ときどき言葉に詰まるような感じで、加害と被害という思いに、言い様のない感情が湧いていたのであろうと思いました。

記念館では、語り部の証言ビデオの視聴や説明なども行っているようですので、より深い理解を得るために行かれる時は確認されると良いでしょう。

なお、敗戦までの十数年の間に満蒙開拓に渡った人が一番多いのは長野県だそうで、その動機を見ると、「教師など公職にある人から薦められた」、「自分で決断した」が半分以上占めているが、そのような雰囲気が県全体に行き渡っていたのでしょう。 でも、実際の所はよく分からないとのこと。
開拓民の当時の写真を見ると、笑顔が多いということは、はじめは「王道楽土」という希望に溢れた渡満であったのでしょう。

展示ブースの最後に、記念館からのメッセージが掲示されていました。
未来に向かって

あの時代に問いかけてみます。
なぜ、「満州」へ行ったのですか。
今を生きるあなたに問いかけてみます。
あの時代に生きていたら、どうしますか。

日本と中国双方の人々に
多くの犠牲を出した
「満蒙開拓」とは何だったのでしょうか。

長く人々の心の奥に
閉ざされていた記憶に寄り添い、
向き合いにくい真実に
目を向ける時がきました。

この歴史から何を学ぶか、
私たちは問われています。
「負の遺産」を「正の遺産」へと
置き換えていくこと、
その英知が私たちに問われています。

歴史に学び、今を見つめ、未来をつくる。
同じ過ちをくりかえさないために。
平和な社会を築くために。

我々の心に深く刻まなければいけないメッセージですね。

今の政権与党にかかわる人々がこの思いに触れてくれることを切に願いたいものです。

今回、記念館で購入した書籍などは、
・ガイドブック

・証言 それぞれの記憶

・満州覚書

記念館での見学を終えてから、中国残留孤児の救済に奔走された山本慈昭さんが眠る長岳寺へ。 お寺は記念館裏の坂道を登ってすぐでした。


 寺は、信玄終焉の地だそうで、種々の碑や説明書きがありました。


慈昭さんの詩「望郷の鐘」

思い出は かくも悲しきものか
祈りをこめて 精一杯つけ
大陸に命をかけた 同胞(はらから)に
この鐘を送る 疾(と)く暝(めい)せよ
日中友好の手をつなぎ
共に誓って 悔(くい)を踏まじ
大陸に命をかけた 同胞に
夢美しく 望郷の鐘
慈昭さんの、中国残留孤児の肉親探しの記録集「戦争は未だ終わらない」を見て、慈昭さんをたずねたのが児童文学作家の和田登さんで、和田さんは慈昭さんの話から「望郷」という本を著され、さらに改稿したものが「望郷の鐘」となり、これをもとに映画化がされたそうです。

因みに、2015年7月に信濃町で、「聴こう! 石の鐘のメッセージ」というイベントがあって、和田登さんも登壇され、会場では、和田さんが著された「石の鐘」の称名寺住職佐々木五七子さんをモデルにした「石の鐘の物語 いね子の伝言」を販売していました。
また、和田さんは現在黒姫童話館の館長をつとめておられます。

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