先日12日、信濃町9条の会が、アフガニスタンで命をなくされた医師・中村哲さんの活動を写した映画の上映会を総合会館で開催しました。
町内ばかりでなく長野からも参加された方がおられ、昼の部では50名ほど、夜の部では30名ほどと、計80名の方々が来られ中村哲さんの在りし日の姿を見て下さいました。
○劇場版「荒野に希望の灯をともす」予告編(2分10秒)
○中村哲医師追悼の会ーー中村先生とともに歩むーー(1時間27分)
私達は昨年10月に劇場版を見ていたのですが、記憶していなかった映像を再確認することができ意義のある上映会でした。
無料の上映会でしたが、関係者の方からカンパが8万円ほど+書籍売上があったとうかがい、日本国内で活動を支えているペシャワール会に送るとのことでした。
日本の政局は相変わらずアベシンゾウのシンパが蠢いているようですが、1月には成田や羽田など日本の主要空港の名称にアベシンゾウを冠したらどうかとSNSで提案した芸能人がいたとか。
これに対し、元朝日新聞記者でジャーナリストの佐藤章さんが、「中村哲国際空港」と名付けた方が、誰もが納得できると意見を述べたそうです。 政治を私物化し日本を混乱国家に貶めたアベシンゾウの名を冠する理由はゼロに近く、その功績を考えたら中村哲さんであるべきでしょう。
さて、前段が長くなりましたが、先日、東日本大震災にかかわる映画を見てきました。 場所は権堂商店街にある相生座ロキシーで、しかも二本立て。 20分の休憩をはさんで続けて見ました。
まず最初は、気仙沼で牡蠣やワカメの養殖をしていた菅野一代(いちよ)さん和享(やすたか)さんの物語の「ただいま、つなかん」。
場所は気仙沼市唐桑(からくわ)鮪立(しびたち)。 「鮪立」と「菅野」の一文字をとって誰ともなく、かつてボランティアセンターであった唐桑御殿を「つな(鮪)かん(菅)」と呼ぶようになった由。
地震と津波で被災した唐桑御殿は足の踏み場もない惨状でしたが、復興や片付けのために入った学生ボランティ達の生活の場となり、彼らとの関わりが生まれる。 しかし、海難事故でご主人と長女を失い養殖事業をやめ民宿をはじめる。 さらに追い打ちをかけるように、コロナの蔓延で宿泊客が減少。
○「ただいま、つなかん」予告編
ボランティアで来ていた若者が社会人となっても故郷に帰るように鮪立へ通い親交を深め、ある者は引っ越してきたり、パートナーを見つけ家族を持つようになって、新しい絆が育ちつつある中で、一代さんは東京で開かれた地元産品のマルシェに向かう。
○気仙沼に新風を吹き込む13人の”ペンターン女子”試練を乗り越えた女将との絆
休憩をはさんで次に見た映画は、「生きる」
津波災害で多くの子供達が亡くなった大川小学校の被災事故のその後を伝えていました。
○「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち 予告編
あの時、子どもたちは何故死ななければいけなかったのか、事故の精査、学校職員や教育委員会からの説明、そして訴訟活動を追ったものでした。
説明会の中で、当時の校長が教育委員会に報告した災害避難訓練は実際には一切しておらず、津波などに対する避難訓練もなかったとのこと。 当時を思い出して説明している教師の言質の中にも歪曲を含んだものであったらしい。
映画の後半では訴訟場面に代わり高裁での判決で確定し賠償金が支払われるとのことだが、賠償金が欲しいために訴訟をおこしたわけでもないのに、高額賠償に対し揶揄する人たちが存在することに情けなさを感じてしまう。
寄る年波で涙腺が弱くなりつつありますが、この2本の映画を見ている間、ひとつふたつと涙を落としている自分に気づきました。 まだまだ被った災難を受け入れることができず、苦渋の底から這い上がれない方々の存在を認識しなければと思うと同時に、復活への希望の灯はかならずあるのだという願いを心の隅に懐きつつ映画館をあとにしました。
○信濃町在住の音楽家とともに石巻コンサートを開きましたが、その際に大川小学校被災地も訪ねました。
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