お知らせ

お知らせ

*自戒を込めて-> テレビ(大手メディアを含め)はバカ箱ウソ箱ニュースやワイドショーからは嘘を植えつけられるし、思考痴呆にもなります。

日本の政治や社会を、自分の眼で見て、自分の頭で考えるようにしたいものです。





「公共放送」と名乗っているNHKや態勢迎合の低俗局(フジサンケイや読売)、大手新聞社(朝日・毎日)等は時の政府になびくような番組や紙面作りをし国民を騙し洗脳しているのです。 「ゴミ箱」同様の「マスゴミ」情報は信用に値するものであるか、自分の頭で判断したいものです。

*ネットニュースにも、偏狭(偏狂)新聞社やテレビ局のものが掲載されています。 やみくもに信用しない、鵜呑みにしないことが大事ですね。

*東京新聞(中日新聞)、日刊現代、信濃毎日新聞、長周新聞などややローカルなメディアから、今の日本をチェックしましょう。



人と防災未来センター

*2012年6月、ブログ「続・黒姫高原はんぐろ日記」を開設し、自宅サーバで運用してきたブログ「黒姫高原・はんぐろ日記」の記事等をこちらへ移行しました。 2012年5月以前の記事に載せた写真等はおいおい移行しようと思っていますが、当面ブランクのままの表示となっています。 また従前から開いていたホームページ「黒姫高原・コム」は2015年1月に閉鎖しました。

*過去に所有したドメイン名 kurohimekogen.com, kurohime.com, kurohime.info は順次放棄し、当ブログへの転送設定も停止しております。

*新聞の切り抜き等で拡大表示しても文字の判読が難しい時があります。 そのような場合は、切り抜き画像をパソコンにダウンロードしてから表示されると読みやすくなります。

*お問い合わせメールは、kurohimekogen●gmail●comへ(●は文字を入れ換え、すべて半角で)

*↓時々、先日付の投稿があります。
 下へスクロールして直近の投稿を確認して下さい。

***掲載した主な画像(写真)の上にカーソルを置きクリックすると拡大されて文字が読みやすくなり、さらにクリックするか当該画像右上のXをクリックすると元のサイズに戻ります***


(間もなく参議院議員選挙がはじまります。)
25年デフレが続いている日本で、自公政権は国民の生活を一顧だにせず、消費税に見られるように搾取を続けています。 彼らは与党政治屋や大手企業経営者の栄華が維持されれば良いと思っているのです。 一般市民が現状をよく見定めて、我々の生活の底上げを真面目にしてくれる政治家を選ぶ必要があります。
自民党、公明党に加え、彼らの補完勢力である、維新、国民、参政党などにも騙されてはなりません。 頼りないですが立憲、共産、社民、れいわ新選組の候補者の中から選びましょう。

2011年8月31日水曜日

泥流地帯の旅

 作家・三浦綾子さんの著作というと、まず「氷点」「続氷点」が一番に思い出されますが、「塩狩峠」「海嶺」「天北原野」「細川ガラシヤ夫人」「母」「果て遠き丘」など数々の人間模様を描いた名作がたくさんあります。 最近読んだ著作では「泥流地帯」と「続泥流地帯」が実に心に訴えるものが有りました。 大正15年の十勝岳爆発による土石流被害を題材にした前編では、開拓農民の生活と被害の様子を伝え、後編では、土石流被害から立ち直ろうとする兄弟の姿を克明に描写し、最後は楼閣に売られた娘を助けた様子を、列車の窓からハンカチを振ることで人間の希望を表し作品は終わっています。

泥流地帯 続泥流地帯

 拓一と耕作兄弟の実に誠実というか人間愛に溢れたというか、人間本来の生態を如実に表しているように思え、誰もが人生の範とすべき人格ではないかと思いました。 それにしても土石流被害の様子は、3.11の津波被害に遭われた被災者のどうにもやりきれない思いに通じているように感じました。 苦しみの渦中にいる人々のことを、我々のように遠くにいる者はもっともっと心に留めなければいけないでしょう。

 三浦綾子さんの作品を展示紹介している旭川の三浦綾子記念文学館では、来月、この泥流地帯をテーマに作品の要所を訪ねる旅を企画しています。

泥流地帯


古間跨線橋

 国道18号線は柏原から古間へと下り坂となっていますが、古間北交差点を左折して古間本町商店街へと進み再び国道と合流する道が昔の国道となっています。 古間北交差点脇で国道はJR東日本の信越線と交差しており、線路を跨ぐ橋が設置されていますが、普通は何も気付かず過ぎてしまうことでしょう。

 その跨線橋の横に、昔の小さな跨線橋がそのまま残っております。 現在は国道工事の材料置き場になったり、歩行者の通路になっておりますが、青空に浮かぶ黒姫山と列車の走行風景が撮れる場所なので、天候の良い日や特別列車が走る時にはカメラマンが鈴なりになっている時があります。 2008年11月にJR東日本・長野支社のイベントで長野・黒姫間をSLが走った時は入り込む隙間もなく、仕方なく跨線橋下の畑のあぜ道で写真を撮ったりしていました。

跨線橋

 現在の国道となっている橋桁には「新寿橋」と表示されているので、もしかしたら以前のこの橋は「寿橋」と言うのかもしれません。 建造年月が記されており、昭和8年製作ということは1933年だから78年を経ているということになります。 人間でたとえると「喜寿」を越えたということでしょうか。 橋の両端には柏原神社古間神社がそれぞれあり、この橋がそれぞれの神社を結ぶ役目をしているようにも思えますので、おめでたい「寿橋」という名は実にふさわしいと感じられます。

跨線橋

 橋の脇に大きな実をつけた木があります。 ネットで調べたら、「オニグルミ」のようで、オニグルミの実もくるみのように食べられるとどこかのサイトに記されていましたが、実を取るにはちょっと危険な場所に生えています。

オニグルミ


2011年8月29日月曜日

ビールと蕎麦の花

 当方は一年中夏休み状態なのですが、それでも緊近や大小にかかわらず種々雑用があるもので、黒姫での夏休み -カッコ良く言うと、避暑生活- もそろそろ終わりにしようと思っています。

 6月下旬から7月下旬にかけては大変暑い思いをしたと記憶していますが、黒姫に来てからは雨や曇りの日が多く、暑さよりむしろ寒さを感じる日が多かったように思います。

 暑い時は何はともあれビールが美味しい。 主住場所と違って、空気が美味しいこともあって、ほぼ毎日缶ビールを開けて味わっていました。 信濃町の人口は赤ちゃんを入れて1万人ほどのようですが、酒屋が5~6軒、スーパーなどを加えると酒類販売の店は10軒を越えるかもしれません。 それだけ需要があるということなのでしょう。

 地元民に好まれる銘柄はアサヒのスーパードライ。 ただ原料の中にコーン・スターチが入っており、どうも私には合わず、もっぱらサントリーのモルツを飲んでいます。 でも店頭に置いてある店が少ないです。

 そんな中にあって、黒姫駅前の萬屋酒店さんにはギネスシメイが置いてあり、もともと値段が高いので毎日は飲めませんが、時々買うことにしています。 それでもアイルランドやドイツで飲むビールの味とは違います。 パブのカウンターにワン・パイントのジョッキーを置き、ワイワイガヤガヤと話に花を咲かせている光景は実にいいものです。

beer

 さて、信濃町内や近隣の町を巡ると、蕎麦の白い花が目立つようになって来ました。 そういう我が家でも8月初旬に蒔いた種から芽が出て、先っぽに白い花の粒のようなものがつき始めました。 間もなく白い花(これが花?)が開くのでしょう。 もっとも蒔いた種の量が少ないので蕎麦を収穫してソバを賞味するのは無理があります。 

蕎麦


2011年8月28日日曜日

古間盆踊り大会の動画映像

 今日は8月最後の日曜日に相応しく朝から晴れ夏が戻ったような感じがし、直射日光を浴びていると、まだまだ夏だなという思いを強くしています。 でも、爽やかな秋風が吹いているので暑くても気持ちは良いです。 山はほとんど雲に隠れておりますが、夕方になれば少しは見せてくれるかなと思ってます。

 さて、14日に開催された「ふるま夏祭り」では客人が帰られた後に、あわてて会場に出向き、盆踊りの動画映像をデジカメで撮りましたが、暗くて踊り手の手や足の動きがほとんど分かりません。 そこでパソコンソフトを使ってコントラストを調整したうえで映像ファイルを変換してみました。 それでもまだ分かりにくいかもしれません。 どちらも最後の10数分ほどの踊りで、一つ目(1分24秒)が古間甚句、二つ目(8分12秒)の映像が古間音頭だと思います。 どちらも若い方が歌っておられたようで、ちょっと渋さに欠ける部分があったように感じました。

 

(追記:2011/09/08)

 町の広報誌「しなの」をあらためて見ましたら、町内の夏祭り&盆踊り大会の日程が告知されていました。 柏原、古間、仁の倉、古海の4地区で行われていると、認識を新たにしました。

 当日、打ち上げ花火が見えていましたが、あれは仁の倉地区で上げたものだったんですね。

盆踊り日程


2011年8月27日土曜日

茗荷の収穫

 今日、「福島に中間貯蔵施設を要請」というニュースを見ました。 メルトダウンしたと思われる東京電力・福島第一原発の原子炉をチェルノブイリと同じように石棺せざるを得ないということを、菅首相も認めたのだと思われました。 小出先生他巷の誠意ある人々の意思がここに来てやっと政府・東京電力関係者に認められたということでしょう。 それにしても判断が余りにも遅そすぎます。 一面では国民の安全を見ない、利権中心の官僚政治のなせる業とも云えます。

 自画自賛に終始している菅直人の総理大臣辞任に伴い、民主党の次期党首選に小沢さんは海江田万里を推すということですが、海江田は日本中を狂わせたバブル経済の時の旗振りをした御仁でした。 当時、日本中の誰もがバブルに酔っていたことを考えると海江田だけに責任を負わせることはできないですが、でもバブル期の功罪を本人自身も総括してほしいと思います。 党首選と首班指名は違うという人もいますが、日本の政治世界も人材不足であることを否めません。

 自分の思考をと一つにするブログを色々読んでいますが、日本の政治状況などを真摯に訴えておられる方々の記事がこの所少なくなったように思えます。 国や国民に向けた正義や安然をいくら報せようとしても、政治や行政は何ら動こうとしない時代にあって、無力感を感じるようになったのかもしれません。 韓流ドラマや芸能人の引退などに心を囚われ、デモに参加したりブログにコメントする人はあまりにも多いようですが、今の日本の現状を真摯に考えている人々の口を封じる結果になっているとしたら、それは非常に残念だしあってはならないことだと思います。

 さて、この所、窓辺の山桜の葉が黄色くなり始めています。 8月に入って灼熱の太陽が現れることが少なく、雨降りばかりで気温も低く、木々も秋が来たと思いはじめたのかもしれません。 時々、雲間に日差しが出ると、まだ夏なのだと思い知らされることもありますが、それもごくわずかです。 もう秋なんですね。

紅葉

 庭や畑の隅に植えてある茗荷から若い芽が出ていることに気付きました。 あまり手入れもせず、日陰がいいとアジサイの傍に植えているのですが、今年はたくさんの若芽をつけています。

 ミョウガを食べ過ぎると、「記憶力がなくなるとか、バカになる」と言い伝えがあるようですが、これは迷信で実際には種々の効能があるようで、上方落語の枝雀さんの十八番には、ミョウガを題材にした「八五郎坊主」という噺があるとのことです。

 北信濃の郷土料理である「やたら」には、このミョウガを欠くことができません。 他にもミョウガを酢に漬けたり、微塵にしたものをオカカとあえると食が大変進みます。 ミョウガは夏から秋にかけての大事な食材ですね。 

ミョウガ


2011年8月26日金曜日

大雨のあとは真夏の日差しが出ました

 やっと菅直人は腹をくくって辞任するようですが、「何もしなかった、何もできなかった」在任期間に対し、本人は自画自賛しているようです。 最後まで世情を理解することができなかったようです。 小沢一郎さんは次期党首に海江田万里を推すと今日ニュースが流れていました。 菅直人と同様に海江田に期待できる部分は少ないと思われますが、それでも前原よりはいいかもしれません。

 さて、信濃町でも今朝は大雨が降っていましたが、それも10時頃には止み午後からは一時ですが夏の日差しが出ていました。 今週から信濃町の小中学校では二学期が始まっており、また小中一貫校のための校舎建設工事もかなり進んでいるようです。 来年4月以降は古間小学校と柏原小学校は閉校となり、信濃中学校との合同というのでしょうか、同じ場所で子供たちは学ぶことになります。 そのため10月には卒業生を含めた閉校式が執り行われるようです。

 そんな信濃町にいて久しぶりの晴れ間が出たので、車を使わずに歩こうと柏原から古間にかけて用事を済ませ、その傍ら距離はわずかですが、カメラ片手に道すがら旧北国街道の風情や一茶句碑などを写して来ました。

歴史の道案内図

 

一茶句碑

 

一茶句碑

 

古間一里塚跡

 

実りの田圃

 

松尾

 

第一スーパー


2011年8月25日木曜日

スティーブ・ジョブスが一線を退いた

(8/26追記)ニュース記事から

ジョブズCEO退任、アップル担う後任の手腕いかに(WSJ)

ジョブズ氏退任に思うことーアップルは2013年をどう乗り切るか(D PC User)

(追記終わり)

 米アップルのCEOであるスティーブ・ジョブスが退任し会長になるとニュースが流れた。

 ○カリスマ退任は「歴史的な転換点」

 ○米アップル:ジョブズ氏の手紙「その日が来てしまった」

 マイクロソフトの創始者であるビル・ゲイツはMS-DOSからWindowsへと、パソコンOS時代を担った寵児として順風満帆なパソコン世界を歩んできていたように思う。 しかし、それに反しスティーブは非常にドラスティックというか劇的な数々の場面を経て、アップル(アップル・コンピュータ)を現在の大会社にしたてあげた。

 「歴史は必然による」という言葉が実に当たっていると思うのが、このスティーブの半生であると感じる。 MacのOSであるOS Xが生まれる下地となったのは、スティーブがアップルを去ることになったぺプシーコーラから呼んだジョン・スカリーとの不仲であったわけで、アップルを出たスティーブが考案したのがNextコンピュータであった。 Nextの真っ黒な筐体には私のようなものにも垂涎の的であった。 スティーブがアップル・コンピュータに戻らなければ、Next OSをベースとしたMacの現在のOS(OSX)は生まれていなかったわけだ。

 私が初めてアップルコンピュータの存在を知ったのは、秋葉原で見たApple II。 大変高価なもので手も足も出ず、ラジオデパートの地下にあった本多通商には、セカンドソースというのか台湾製のApple IIが並んでいたように記憶している。 それでも買えるような値段ではなく、当時広まりつつあったNECのTK-80というワンボード・コンピュータを主に遊んでいた。

MacPeople 2011/9号より
Apple II

 当時、ソフトウエアのレンタルをしていたソフマップにも通ったし、Apple IIcの紛い品を扱っている店にも随分と通った。 以後著作権の問題でレンタル業はなくなり、台湾製の紛い品も警察の手入れを受けるなどして消えてしまった。

 私がアップルコンピュータを購入したのは、Macintosh IIという最初のカラー表示のパソコンであった。 それも大変高価なパソコンであったと記憶し、当時はキャノン販売が代理店となっていた。 その熱が昂じて、シンガポールでアップルがアジアで初めて開催したフェア MacWorldに休みを取ってわざわざ出かけたものでした。

MacWorld

 今、手元にあるのは、Apple IIc , Powerbook100 , Macintosh SE , Macintosh Classic 、その後数台手元から離れて iBook そしてPowerBookPro。 この間にNECのPCシリーズやWindowsマシンが色々入っていましたので、パソコンへの投資額としてはバカにならない数字となっています。

 現在は、Macを中心に、ウインドウズマシンも脇に置いて使っていますが、やはりドラスティックな半生を過ごしパソコン時代を駆け抜けてきたスティーブにはそれなりの想いを捨てることが出来ません。 肝移植の報を知り、早晩現役を退くのではと思っていましたが、とうとうそういう日が来たということになりました。 スティーブの退任報道に、米アップルの株価は下がったということですので、まだまだスティーブの存在は大きいと米国民が認めている証左なのでしょう。

 ゲイツやスティーブが築き上げたスモールコンピュータ時代が終焉し、TwitterやFaceBook またGoogle、あるいはそれらを越えた新しいIT時代がやって来るのかもしれません。 そう思うと何かワクワクするような気分にもなり、老域を自認することなく、この世界にまだまだ関わって行きたいという思いを強くしています。

TK-80


2011年8月24日水曜日

8月27日は東京でツイッター有志による脱原発デモ

 朝は雲っていたものの、晴れの予報を暗示するかのようにミンミンゼミが鳴き出し、9時頃から日差しがあたるようになりました。

 久しぶりの晴れ間になったものの明日以降は再び雨模様のようなので、草刈機をだして家の周囲の草を刈りました。 晴れ間といっても、日差しはわずかでほとんど雲っていましたが、それでも体からはとうとうと汗が流れていました。 気温25度ほどでも湿度があるからでしょうか、ちょっと体を動かすと暑いです。

夕景

 今日のネットニュースの中で、「『われわれ富裕層に増税を』、フランス富豪らが政府に嘆願」を見ました。  国の財政赤字に富豪らが手助けするというもので、日本の経営者や金持ちにも見習ってほしいですね。 小泉政権時代に悪政のかずかずを中心的にやった竹中平蔵は日本国に住民登録せずに日本での課税を逃れていると聞いたことがあります。 実際どうなのか知りませんが、某宗教団体の会長も海外に多くの資産を置いていると言います。 また企業も海外法人を設立して商取引があったこととし日本での課税を逃れているケースがあるようです。 法人税の軽減など日本政府は企業に甘く、また企業人も健全経営を御旗に納税を極力逃れようとしていると思われます。 楽天やソフトバンクの社長が東北大震災に対し多額な寄付をすると過日発表されていました。 その後実際にどういう形で寄付されているのか、我々一般人には精査する情報も知恵もないのですが、それでもそのように発表した経営者は僅かにいました。 でも多くの金持ちは違法な脱税もしくは法に則った脱税にえいえいと努力していることでしょう。 フランスの富豪を見習ってほしいと実に思うものです。

 さて、年貢の納め時でしょうか、とうとう菅直人が退陣を決めたようですが、次の党首には前原誠司の可能性があるということです。 京都大学で高坂正堯に師事した所をみると、思考は極端な保守志向であると思われ、本来は自民党に所属すべき輩でしょう。 現在、アメリカ政府も財政赤字に苦しんでおり、米軍の駐留費用の一層の負担や米国債(紙っぺら)の購入などをさらに求めていると思われ、それの受け皿に前原は適任なのでしょう。 逆から見ると、日本国民がえいえいと努力して積み上げた資産を、いとも安易にアメリカに貢いでしまうであろう、それこそ小泉と同様に売国奴になる側面もある人物なのです。 民主党の他の候補者も五十歩百歩で、国難を乗り切れるほどの才覚があるとは到底思えず、指導者の選択肢がないという点では、日本国民にとっては大変不幸なことだと思います。 結果、そんな危惧していることがなく、手腕を発揮して日本丸を明るい未来に導いてくれるであろうと願うことしか、我々市井の民には出来ることがありません。

 このように福島原発の現状が明らかにされないまま、政治家は政権奪回にやきもきするばかりです。 原子炉がメルトダウンし、もう石棺で覆うしか方法がないという学者がいるのに、東電からも日本政府からも対策が明らかにされていません。 放射能禍から避難すべき福島の子供たちの多くが、いまだ放置されているらしいのです。 ほとんどの行政は無策のまま、住民をないがしろにしています。

 先日、福島の農家の人達が東京電力に対し補償を求めてデモを行ったと聴きましたが、福島の農家も漁民も住民も、生活と人生を狂わされているわけですから、もっともっと怒るべきなのです。

 今日、ブログを見ていたら、来る27日(土)に東京・渋谷で脱原発デモツイッター有志による脱原発デモ)を実施すると知りました。 奥信濃にいては参加が難しいのですが、次の機会には是非参加したいと思います。 安全な原子力であれば諸手をあげて賛成したいですが、現在の原子力は福島で見るように大変危険なものだし、放射性廃棄物が産み出され、その処置についても明確な手段がいまだ確立されていないのです。 原子力の平和利用などというのは言葉のまやかしであって、あってはならないものなのです。

脱原発


2011年8月23日火曜日

「信濃の国」 小学校で踊って覚えて

 九州など西日本は大雨が降っているそうですが、ここ信濃町でも雨が降ったり止んだりの日々で外仕事ができず、パソコン画面ばかり見ることとなって、どうしても体が固くなってしまいます。 そこで夕方スーパーへの買物の用事を作って歩いて出かけて来ました。

 その途中に、今盛んに伸びている萱の中に、葉の間に一定間隔に縞が入っている萱を見つけました。 家に戻って調べたら「斑入りカヤ」というススキの一種だそうです。

斑入りカヤ

 そしてこれも荒地にどんどん伸びている「ネコジャラシ」。 ネコジャラシは俗称で正式には「エノコログサ」というそうです。

ネコジャラシ

 さて、先日、信濃毎日新聞のサイトで、「『信濃の国』 小学校で踊って覚えて 教諭ら対象に研修講座」という記事を見ました。

 私は音楽を聞くのは大好きですが、根っからのオンチだと思っているので、歌うのは大嫌いで宴会で披露するような歌謡曲は全く知りません。 無理やりカラオケにつれて行かれると、集団の中の口パクで誤魔化す有様です。 従い、母校の校歌とか県歌などは端から覚える気がなく半生を暮らして来ました。

 その点、長野県民や長野県出身者は郷土愛が強いのでしょう、県歌「信濃の国」をしっかり覚えていて、どんな時でも歌えるらしいのですが、この記事にあるような研修も時には必要なようです。 信濃町に住いを構えて20数年の間に私もしばしば聞くことがあって、「信濃の国」のメロディーは頭の中に入っており、歌詞を見て行くと、郷土への愛着が感じられる実にいい詩だと思っています。

 その「信濃の国」について詳しく記載した、信濃毎日新聞が数年前に購読者向けに配布した「県歌 信濃の国」というリーフレットがあります。 再配布が可能かは分かりませんが、県歌の内容は広く知られたものだし、「信濃の国」への理解に役立つものと思われここに載せておくことにしました(再掲不可の記述はなかった)。 ただ、そのリーフレットをイメージに落としてからPDFファイルにしたものですので一部に見難い箇所があるかもしれません。

信濃の国
県歌 信濃の国(PDF)

 

 



2011年8月22日月曜日

久しぶりに戸隠蕎麦を賞味

 今朝は、黒姫山の斜面が見えるほどに天空の雲が薄くなり、久しぶりに束の間の日差しもありましたが、その後は雲って夕方には雨が落ちていました。 相変わらず涼しいです。

黒姫山

 昨日、3.11大地震の被災地の一つである石巻での救援活動を5ヶ月も続けている”ヒロシ君”が友達をつれてやって来ました。 韓国Walk以来の、2年ぶりの再会でした。 昨夜は、Walkで出会った人々、出来事、そして石巻の状況などを話題に、二日酔い一歩手前までの美酒に酔いしれてしまいました。

 石巻でのボランティア活動は二期目にはいっており、援助の形も徐々に変わっているようです。 数日の休暇(休養)が得られたと訪ねて来たもので、今夕にも郷里へ帰るというので、野尻湖周辺を案内してから戸隠へ蕎麦を賞味に出かけました。 先日久しぶりに行った戸隠なのに大変な混雑で食べられなかった、戸隠牧場(キャンプ場)脇の「岳」さんの戸隠蕎麦を賞味することができました。

岳

 

ヒロシ

 途中、豊富な湧き水が流れている場所があり、そこでタンクやペットボトルに水を汲んだのですが、その時にアゲハチョウでしょうか蝶の大群に出会いました。 彼らは仲間の屍を弔うように何匹も群がっていました。

アゲハチョウ

 

アゲハチョウ


2011年8月21日日曜日

おぶせ物語

 上信越道・小布施PAにはETCカード装着車のみを対象とした一般道との出入口があります。 出入ゲート前の信号の向こうには道の駅がありますが、ゲート横にも駐車場があって、そこで小布施の桃など農産物を販売しています。

小布施

 ここで土日のみ販売されるものがあって、今朝早々と雨の中出かけて来ました。 ちょうど農家の方が次から次へと販売する農産物を納品している所で忙しくしていました。 土日だけの販売物はここでは記しませんが、かなり期待した分いまひとつの感想でちょっと残念でした。 小布施の町中には栗畑があちこちにあり、栗の実は青々と丸く膨らんで、あるものはイガグリのまま道路に落ちていました。

小布施

 

小布施

 

小布施

 今日は関西の知り合いから小荷物が届きました。 挨拶を記されたポストカードの表面を見たら、何気に可愛いい絵がついていました。

 負けそうだけど 負けない。

 泣きそうだけど 泣かない。

 明日は きっと 笑えてるさ。

人生は色々で、艱難辛苦もあるけど、明日があるから生きられるのでしょう。

 と記した所にウォークで一緒した若者から電話があり、今夕こちらにやって来るとのこと。 今夜は久しぶりに賑やかな宴になりそうです。 

ポストカード


2011年8月20日土曜日

一茶記念館講座「一茶と賢治」を聴く

 小林一茶の故郷である信濃町(柏原)には一茶を顕彰する一茶記念館がありますが、こちらでは一茶に関連した講座が年4~5回行われています。 なかなか日程が合わず出席できないことが多いのですが、今日の講座は原子朗さんによる「一茶と賢治」でした。 早稲田大学の名誉教授である原子朗さんは、花巻の宮沢賢治イーハトーブ館の館長を昨年まで務められておられたそうで、「宮沢賢治語彙辞典」という50年間かけて完成させた大作(出版物)もあります。

会津八一

 原さんの講演は、やはり一茶記念館で2004年にも聴いており、話の内容の豊富さ、面白さと同時に、過去の戦争に対する認識も明確であり、ある種の正義感も感じられ、今日の日は絶対逃さないようにと思っていました。

 齢87とのことで、いまだ矍鑠としておられましたが、やはり7年前に聴いた時とはだいぶ違うなという印象でした。

 挨拶の後、最初に原さんがお話されたのが会津八一。 原さんは会津八一が昭和20年に早稲田大学を退官する最後の生徒であったらしい。

 原さんは講演の際、黒板やホワイトボードの代わりに、大きな白紙を張って、そこに筆で説明事項を記しています。 会津八一が好きな家内は、原さんの書体が会津八一に似ていると言います。

 私は、書かれた文字の中で、「文化」という書が一番いいなと思いました。 今秋10月か11月に、原さんは東京・銀座で書展を開くとのことで、案内状の送付をお願いしました。

 講演の内容は、原さんが研究されてきた宮沢賢治と小林一茶の同一性というか庶民性というか、あるいは共時性といったものをそれぞれの作品から説くものであったと思います。 それぞれ生きた時代も、俳諧と詩という分野も異なっていましたが、想いは一つということなのです。

 最後は、スピノザとか曼陀羅、ユングや南方熊楠といった、若かりし頃に聞きかじった人物や事柄も出てきて懐かしさもありました。 原さんは話しだしたら6時間あっても足らないと仰っていましたが、2時間のお話では、私の理解はまだ微々たるもので、賢治と一茶にもっと触れなければという想いだけを強くしました。

 たぶん質問者はご存知で問われたのでしょう、北信五岳の一つである斑尾山の名は、「曼陀羅御山」から転じているとのこと。 木曾の御岳(御獄)山などと同じように斑尾も信仰の山であったんですね。

 原さんのお話はあちこち飛んで、まとまりがないようでまとまっていましたが、宮沢賢治をはじめ日本の文化人の多くは30歳代に亡くなられているものの、後世に大きな作品というか思想を残されている。 現代人の余命が70とか80とかに伸びているが、もう歳だからと弱音を吐いたり、テレビや新聞、はたまた広告に翻弄される人生ではなく、自分の意思で生涯を切り開くようにしなければいけない、という説には共感するものがありました。

 書き終わると思い出したように追記していますが、古間鎌の鍛冶作業の動力化、ルバーブやブルーベリーの生産などに力を注いだ宣教師ストーンさんの助手を原さんは一時していたとのことです。 海外から届くメールの翻訳などをされていたようです。 ストーンさんは信濃町のあと北海道へ農村伝道に行かれ、その際青函連絡船・洞爺丸の沈没事故で自分がつけていた救命具を女性に渡し、泳げないストーンさんはそのまま海の藻屑と化しました。 三浦綾子さんの著作「氷点」にもその件が記されています。 賢治や一茶からストーンさんに繋がるなんて、不思議な縁を感じるものでした。

 またまた思い出しました。 小林一茶の母親の里は「宮沢家」なんですね。 宮沢賢治との縁がそんな所にもあるのでは、という原さんの最後のオチでした。

一茶記念館講座

 

一茶記念館講座

 

一茶記念館講座

 

一茶記念館講座

 

一茶記念館講座

 

一茶記念館講座

 

一茶記念館講座

 

一茶記念館講座

 

一茶記念館講座

 

一茶記念館講座


早朝の散歩道から

 今日も降ったり止んだりの肌寒い一日でした。 9月中旬に地元の秋祭りが開催されますが、その頃になるとかなり冷えて神社での奉納舞の時に震えて観覧していましたが、その時に匹敵するような寒い気候だと思えます。 もうTシャツに短パンというスタイルでは居られません。

 そんな早朝に近くを散歩に出ましたが、林の中では枝葉についた雫がポタポタと頭に落ちていました。 道筋の花のことはよく分かりませんが、栗の実が大きくなりつつある姿を見ると、もう夏は終わったのだと認識させられます。

 一箇所、杉林がばっさりと伐られた地域があります。 畑にするには変形な土地だと思ったのですが、先日戸隠へ向かう道を走っていて、以前荒地であった場所に広く蕎麦の白い花が咲いているのを見つけました。 今、企業がサイドビジネスでしょうか農業経営に参画することがあるそうですが、ひょっとしたら散歩道脇のこの場所も来年には蕎麦畑になるのかもしれません。

 夜7時、飯綱高原の方から花火の音が聞こえています。 信濃町と同様に飯綱もしとしとと雨が落ちていることでしょう。 10年近く前も寒くて震えながら飯綱高原の花火をみたことを思い出しました。

散歩道から

 

散歩道から

 

散歩道から

 

散歩道から

 

散歩道から

 

散歩道から

 

散歩道から