台風からかわった低気圧が日本海を北上する中、朝は雨があがりそうな気配で、高速道路を走行中には西に虹が見えていました。 ただ虹は短く太くて山の峰すれすれに発生していてアーチ型のきれいな虹ではありませんでした。
最初の訪問地である姨捨文学館に到着し長楽寺周辺の塚や句碑の説明が始まる頃には切れた雲の間から強い日差しが現れてTシャツ1枚でも暑いほど。 しかし午後からは曇って、森将軍塚古墳を訪ねる頃には重い雲がたれこめ、帰路は再び雨の中でした。
おばすて文学館で現地のボランティガイドお二人が紹介され、順番に塚の説明をされ、そして姨石の上に立ち、善光寺平を俯瞰しました。
それから宝ヶ池、樹齢千年という桂の木のわきに立つ白い円柱形の「白雄居士之遺趾」、月見堂前の「芭蕉翁面影塚」、長楽寺本堂中庭の種々の碑などなど。 途中、ガイドさんの謡曲「姨捨? or 田毎の月?」を拝聴。
最後は階段を上って観音堂へお参りしてから文学館へ。
一茶が姨捨をたずねたのは2度とも3度とも言われているそうですが、現在一茶の句碑は姨捨にはないそうです。
次にたずねたのは、森獏郎さんの「杏の里板画館」。
棟方志功と同様に木版画をとくに板画(ばんが)と言っているそうで、森獏郎さんの作品は、道の駅・天望館や一茶記念館でよくみていたものの、特段の印象を持っていませんでしたが、ご自宅を兼ねた板画館で30分ほど森さんのお話をうかがい、 一変でそのお人柄に感じるものがありました。
お名前(ペンネーム)の「獏」には大変な意味があるそうで、この11月には森獏郎さんの講演会を一茶記念館で行うよう準備されているとのことでした。
ご自宅のわきに立つ千本松で、この家は昔漢方医の家であったそうです
この杏の里板画館No.13の裏面に、杏花村誌という獏郎さんの編集後記が載っています。 これをみて獏郎さんのことがもっと好きになってしまいました。
最後にたずねたのは「森将軍古墳塚」で風雪による傷みがあると修復中でした。 一人のための墓であった由。 豪族かシャーマンのような人物か、あるいは渡来人によるものか、盗掘にあってしまい、塚の詳細をあきらかにするものはないそうです。
「森」というのは、以前「森村」があったなど周辺地域の名称だそうです。 また「将軍」という言葉も、「偉い人、優れている人」などという意味で使われた由。 歴史や社会の教科書に掲載されるほど日本で有数の古墳とのこと。
再び善光寺平を俯瞰しました。 千曲川、新幹線、長野道、上信越道なども見えます。
当方、受験では苦手な科目である国語がない学部を選んだほどで、当然作句などは難しくてなかなか近づきがたい存在ですが、一茶記念館の講座で一茶の生き方に触れたり、このような企画で稀有な人々に会えることはこの上のない喜びとなっています。
これからも一茶記念館ばかりでなく、町内の色々な企画に参加し見聞を深めていきたいと思った、今日の「一茶をたずねる旅」でした。
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