まあ、それでも夜になればさわやかな風が吹いて寝苦しいということはないので、今のところは助かっています。
さて、先日の18日に、信濃町で「聴こう! 石の鐘のメッセージ」という会があり出かけて来ました。
信濃毎日新聞に本会の予告記事が掲載されていたものの、部外者でありながら「平和」を願うイベントにどれだけの聴衆が来られるか気になっていましたが、夕方5時の開演にはホールにほぼ満員状態で、信濃毎日新聞、そしてSBCであったか記者やカメラマンも会の様子を写していました。
第1部は「戦争を語り継ぐ」と題して、信濃町元町議会議長中沢則夫さん、小林一茶の菩提寺である明専寺副住職月原秀宣さんに登壇願い、信濃町議員の永原さんが司会進行するというものでした。
中沢さんは御年96才(信毎記事には93才とありました)、戦前貨物船(商船?)で学費を稼いだ後、東京電機通信大学の前身で学び、戦時中は敵国の電波を傍受する仕組みの開発に従事された由。
こちらから電波を発射し、敵国の戦闘機群で反射して還ってくる電波の強弱で、戦闘機の機数など規模を予測する仕組みであったらしい。 現代であれば、野球のピッチャーボールや警察の速度違反取締りで使われるドップラー効果というものでしょう。
実際に装置を戦闘機に載せて、アメリカ軍の戦闘機近くを飛び、その効果をなんども試したと、遭遇しても銃火器をのせていなかったので機重が軽く逃げ切ることができたとのこと。
それでも、260余機あった戦闘機が敗戦時には4機にもなっていたと、「九死に一生を得た」と言っても過言ではなく、海の藻屑となった同僚の遺品を実家に届けたこともあったと話されていました。
当時、日本人が発明した八木アンテナを日本軍が活用することはなく、アメリカなど外国で利用され、精度、装備ともに日本は劣っていた由。
そんな体験や想いの中で、中沢さんを含む信濃町議会経験者3名の方が、国がすすめている「戦争法案」に反対する意見書を提出しようと、先月、信濃町議会で策定され、かろうじての過半数でその願いが可能となりました。
しかし、中沢さんの想いを吐き捨てるように、戦争法案は衆議院を通過してしまいました。
明専寺副住職の月原さんは、2003年にアラブ諸国を訪ねたそうで、日本は半世紀以上戦争をしない国として認知され、現地の人からは親しく受け入れられていたそうです。
しかし、昨今の邦人人質事件に見られるように、日本人に対するそんな想いは覆され、戦争をするために出かけることになろう自衛隊員などの犠牲はこれからどんどん増えるであろうと憂慮されていました。
第2部は、「石の鐘」がある信濃町柴津の「称名寺」住職佐々木五七子(いなこ)さんとシンガーソングライターの清水まなぶさんのトークと演奏。
佐々木さんは、子供の頃、お付の人と
清水さんは、お爺さんから過去の戦争のことを聞き、実際に引揚船がついた港にもでかけ、大陸へ開拓にでかけ帰国を余儀なくされた人々の想いを感じてこられたようで、その想いを歌にされた由。
舞鶴港で出会った老人から、「ここは多くの引揚者がゼロから出発した場所で、艱難なことがあったら、ここに戻って自分を振り返ったらいい」と聞いたことが胸に残っているとのこと。
以前、佐々木さんからヤンチャな若者が東京からよくやって来ると聞いていましたが、その若者が清水さんだと当日知り、お年はわかりませんが好青年に思われましたし、一貫して平和を願う音楽活動をされていると、その立ち位置に感じるものがありました。
今回出版された「石の鐘〜いね子の伝言〜」の著者であり、黒姫童話館館長でおられる和田登さんが登壇され、清水さんとのトークの前に、「夕焼け小焼け」の替え歌を歌われ、「石の鐘」を著した想いはこの歌に現れていると話されました。
後刻ネット検索したら、次のような替え歌であったらしい。
夕焼け小焼けで日が暮れない 〜街は連日連夜の空襲で空はまっ赤に染まっていた
山のお寺の鐘鳴らない 〜お寺の鐘は武器・砲弾の材料として供出させられた
お手々つないでみな帰れない 〜子供は学童疎開で親元から引き離されていた
烏も一緒に帰れない 〜食べるものがなく烏も捕獲して食べた
信州児童文学会・柳沢朝子さんがこの「石の鐘の物語」の一部を朗読され、 清水まなぶさんが自作の「石の鐘の伝説」、「沈まぬ太陽」を歌われ、最後に聴衆と一緒に「故郷」を歌い、1時間半の予定が2時間近くものびて終演となりました。
会場の後方には、飯綱町のかみや?さんという方が終戦後50年かけて収集してきたという、あの戦争に動員され、当時の人々を苦しめた証拠にもなろう、あるいは遺品もあったかもしれませんが、たくさんのものが展示されていました。
盛況のうちに終わった会場出口では、今回の主人公3人が聴衆と声をかわし談笑されていました。
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