アイルランドの修道院を舞台にした「マグダレンの祈り」やメキシコの「アマロ神父の罪」といったカトリック教会の内部を暴くような映画に対し、日本のマスコミなどはこれを好奇な目で捉えているようだ。
しかし、そもそも人間には、神父であれ高僧であれ誤謬などということは決して持ち合わせていないのだし、自分にとっての正義はある時は相手にとっての不正義になることは枚挙に遑がないのである。
社会的地位が上がれば上がるほど、保身に走るのも洋の東西を問わずどこにでもあることだ。 オウムのようなオカルト集団が自分たちの正義を信じてサリンをまいたり、刑事が誤認逮捕した容疑者を裁判所に送致し、自分を正当化することもある。
統一教会の集団結婚式やエホバの証人の輸血拒否なども、一方にいる者には奇異に写る。 宗教であれ政治であれ経済であれ、人それぞれの考えや信ずる所に拘泥するのではなく”ある種の寛容さ”を持ち合わせたいものである。 だからといって抜け駆けや人を踏み台にするような行為や小泉や石原のような強権発動には必ず”ノー”と言いたい。
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