お知らせ

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*自戒を込めて-> テレビ(大手メディアを含め)はバカ箱ウソ箱ニュースやワイドショーからは嘘を植えつけられるし、思考痴呆にもなります。

日本の政治や社会を、自分の眼で見て、自分の頭で考えるようにしたいものです。





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*ネットニュースにも、偏狭(偏狂)新聞社やテレビ局のものが掲載されています。 やみくもに信用しない、鵜呑みにしないことが大事ですね。

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人と防災未来センター

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(間もなく参議院議員選挙がはじまります。)
25年デフレが続いている日本で、自公政権は国民の生活を一顧だにせず、消費税に見られるように搾取を続けています。 彼らは与党政治屋や大手企業経営者の栄華が維持されれば良いと思っているのです。 一般市民が現状をよく見定めて、我々の生活の底上げを真面目にしてくれる政治家を選ぶ必要があります。
自民党、公明党に加え、彼らの補完勢力である、維新、国民、参政党などにも騙されてはなりません。 頼りないですが立憲、共産、社民、れいわ新選組の候補者の中から選びましょう。

2010年4月30日金曜日

ピースウォークfrom沖縄 と  韓国巡礼Walk9

walk&walk
 本年1月1日沖縄を出発したピースウォークfrom沖縄は、28日国会議事堂到着で終了した(と思う)。 28日と29日には集会やイベントがあると聞いていたが、既に離れた身としては下記のとおり参加するのが阻まれ、昨年の韓国巡礼も含め精査した内容を今日は記しておこうと思う。
 
 その前に、iPhoneで撮った動画をユーチューブに掲載しました。 ユーチューブのトップ画面で、”ピースウォーク 沖縄”と検索すれば一覧されます。
 
 さて、この2月から参加していたピースウォークfrom沖縄ですが、静岡市内の途中で一行から離れウォークを中止することなってしまいました。 その理由ですが、核兵器廃絶や軍事基地撤退をもとめ、あくまでも平和を希求するためのウォークのはずでしたが、20日早朝に別の参加者と小さな諍いがあり離脱を余儀なくされたためでした。
 
 このピースウォークは、今年元旦に沖縄久高島を発って東京を目指したもので、昨年8月頃から企画して来たものらしく、私はその行程の半分に近い2月22日から参加していたものでした。 そのタイトルの通り、平和を訴えながら東京へ向けて「歩く」ということは分かっていましたが、コースや宿泊場所の決めなどは分からず、また誰が企画しているかも知らず、ただピースウォークという車にヒッチハイクさせてもらうがごとくに参加したようなものでした。
 しかし、だんだん分かって来たことは、2005年のストーンウォーク、2007年のストーンウォークコリア、2008年の9条ウォークといったウォークイベントで培って来た各地のネットワークから、今回地域の実行委員会を組織してもらい、その実行委員会がウォークのルートや宿泊場所、集会やイベントなどを計画し、先達である石橋行受上人と参加者であるルートウォーカーはその計画に乗って歩くというものでした。 当然各地の計画は東京に置く事務局との調整の上でなされているものでありましたが、ウォークの詳細はその地に着かないと分からないというもので、一種ミステリーツアーという要素を含んだ未知の旅でもありました。
 


  私が、参加した当初はそのように右も左も分からない状況で、ただ列(といっても少人数でしたが)について歩くというもので、そのうち日々の状況をブログに載せ報せたいという求めに応じて、iPhoneで写真を撮り文面入力し東京へメール送信した上で、それを東京側でブログ投稿するという形で対応しておりました。

 しかし、iPhoneの写真はあまり綺麗でなく、東京の担当が風邪でダウンし更新されなくなったこともあって、石橋上人が使用されていたイーモバイルアダプタを使ってネット接続し、直接ネットPCからブログ投稿するようになったわけです。 そして写真も普通のデジカメで撮影し、掲載写真の編集もPC上で行い、また途中参加された方々がウォーク中の写真を見たいであろうという求めに応じて、日中撮りためた写真を無料掲載サイトへ一括してアップすることも始めました。
 結果、それまでは歩くだけで良かったのが、写真撮影、ブログ投稿という仕事に加え、参加者のバッグや食器食材を載せた伴走車の運転手がいない場合は、これを運転しなければならないという仕事(ナビのないただ地図だけの運転はかなり疲れるものです)が加わったわけです。 しかも少人数の参加者からはまとまった参加費を集めることができず、またカンパや寄付があるといっても、先達である石橋上人が個人的に大きな負担をしていることが分かり、その面でもフォローすることをこころがけていました。
 
 そんな形で進められてきたピースウォークですが、日本山妙法寺の中に石橋上人を快く思っていない人物がいるらしく、「石橋上人は過激派と付き合っており、あのウォークは日本山が認めたものでない」と、ウォークに協力しないよう喧伝していたらしいのです。 そのためある地域では協力が得られず、石橋上人は願ったウォークを進めることができず、そういう中傷にも耐えておられたと思います。 ウォークに協力し行き交った人々の中には、昔学生運動にのめりこんだらしいと聞くこともありました。 当時、平和や平等な世界を求め活動した学生の中には、制約された社会の中でその思いのあまりに違法な行動に出た人もいたでしょう。 しかし、それは昔の話であり、今は普通の社会人として暮らし、日本国民として憲法で保障された方法で平和活動を行い、このウォークに関わっているのです。
 そういう状況を単に「過激派と付き合っている」として石橋上人を排除するのは宗教者としてあるまじき行為であり、そこには妬みや嫉みといったあってはならない感情が存在するようにも思われてしまいました。
 
 そんなウォークを2ヶ月の間に続けて来たのですが、二週間ほど前であったか日本山妙法寺の上人2名が交互にこのウォークに初めて加わりました。 最初の方は物静かな上人でしたが、入れ替わりに来られた牧野上人という人物と諍いを起こしてしまったのです。 この方は、穏やかな石橋上人とは異なり、煩いほどに話し好きで、やたら一人一人の個人情報を聞きたがっていました。 たぶん参加者の平和な情報は彼にとって苦いものであり、苦労やマイナー情報は甘露な飴の味なのでしょう。 そして彼は短期の一参加者のはずが、ウォークを取り仕切ろうとするのです。 食事の準備や寝具の片付け、荷物の積み込みなど参加者が協力して作業をすることがあるのですが、リーダーは石橋上人であって、牧野上人が采配する必要はないのです。
そんな思いでいた20日の朝にトラブルが起きたのでした。 昨晩、皆が寝静まった頃までブログへの投稿作業をし、寝ながらもあれが抜けていた、これも加えなければと文章の修正の必要性が思い起こされ、皆が寝ている5時前には起きて再び作業を始めていました。
 泊めていただいた寺の住職から朝食の支度が出来たと知らされ、机のパソコンなどを片付けている時に、その牧野から「配膳を手伝え」と言われたのです。 十分に手は足りていたし、何も据え膳で待ち構えていたわけではなく机上を片付けていた最中でした。 その言葉に心穏やかでないものを感じたのでした。
その言葉を撤回するように、すぐに申し入れたのですが、彼からは「あなたには食の大切さを教えてあげなければならない。 食事の支度は共同で行うものだ。」と言うのです。 手が空いていれば当然共同で行うものですが、たまたま片付けをしていたのでした。 これまで自分の時間を割いてウォークに協力して来た実態を知らずに、よくもそんな事が言えるなと、そういう人物と一緒に歩くことは出来ず、「あなたが出て行くか私が去るかのどちらかだ」と申し上げたのです。
彼の回答が、「私が出て行きますよ」というものでしたが、はじめから当日の昼に彼はウォークを去る予定になっていたのです。 その時のこちらを嘲け笑うような彼の表情に、私はさらに怒りを感じたのでした。 一分一秒たりとも彼と一緒にいることに苦痛を感じ、自分の荷物をまとめウォークを去ったわけです。 その間は2・3分で石橋上人も為す術もなく戸惑っていたのでと思います。
 
 第三者が聞けば、取るに足らない諍いのように聞こえますが、これまでになるには色々布石があったのでしょう。 寺院での宿泊に際しては、そこの住職が朝の勤行を行う時には一宿一飯の礼儀として必ず参列するようにしました。 しかし、石橋上人一人の時には勤行がなく、他の上人が加わってから朝の勤行が行われるようになっていましたが、それは妙法寺の僧侶としての彼等の務めであり、我々ウォーク参加者にとって関わりのないことなのです。 ピースウォーク参加の案内の中に、ウォークの先達は僧侶が行っているが、このウォークは宗教活動ではないとはっきりとうたわれていました。 それでも、時間があれば、朝の勤行に出ても良かったのですが、ブログ作業に加え、自分の個人的な日記を書く作業もあり、とにかく時間がなくそれも適わなかったのです。 朝の勤行、朝の挨拶にも出ない私の姿を見て、牧野上人は不遜な輩だと思ったことでしょう
 他人は他愛の無い諍いだと思うことでしょうが、価値観の相違なのか、私にはそういう偏見には、自分という人格を全否定されたようで、我慢ならなくなってしまうのです。
 
 ピースウォークブログにも書きました(既に削除)が、その前日にウォークを終えて入った風呂で、洗い場が少ないのに、牧野上人は入浴道具や洗濯物を入れた洗面器を一つの洗い場に置いて占有し、本人は風呂に浸かり他の参加者と談義を交わしていたのでした。 広い銭湯であれば洗い場を占有することもあるでしょうが、皆が体を洗えず困っていたのです。 地元の方と思われる方が、占有物を片付けてしまったらと言い、それも当然だと私が隅に追いやり、その時になって牧野上人の物だと分かった次第でした。 我々は一般の人々と共同して暮らしているわけで、平和を唱える前に、共に協力し合い他人に配慮する心がなければなりません。 牧野上人は、そういった一般人の常識も無いのです。
そんな輩に「食の大切さを教えてやるんだ」などと言われたくもありません。
 
 宗教者、そして仏教者としてはあってはならない、「我」の塊が牧野上人なのです。 そのような次第で、ピースウォークを去ることになったわけでした。 トラブルメーカーとおぼしき人物の参加をみとめた石橋上人の判断が誤った結果だという一面もあるかもしれませんが、牧野上人の所作を許す気持ちにはなれずに、日本山妙法寺とは関わりを持たないと心に決めたのでした。
藤井日達上人に続いた日本山上人達の平和活動に敬意を持っていたのですが、現在の日本山には日達さんのような立派な先達がいないのでしょう、過激派の噂を流したり、牧野のような人物が出たり、またインドでも紛争のような事があったとも聞きます。 そんな中にあって石橋上人の存在は重要だし、彼の平和希求へのあくなき心を大切に支えなければと思うのですが、一旦離れてしまうと再び彼の心に通じ合うためにはもう少し時間が必要だと思います。
 
 ここまで書いて来て、ピースウォークブログへの記載は25日の厚木基地での行動で止まっており、その後の逗子池子や横須賀基地、また品川から国会議事堂までのウォークや沖縄集会、東京交流会などあったはずですが、そういう報告が30日朝の段階でまだありません。
 私がピースウォークを離脱せざるを得なかった小さな出来事以外に、大きな問題を内在していたのかもしれません。 一定の距離を置いて見ておこうという気持ちになったのは私にとって良かったことかもしれません。
 
 
 
 さて、このピースウォークfrom沖縄に参加する前に、私は昨年これまでの日本の歴史の中で秀吉時代まで遡って日本という国が朝鮮半島で行った数々の悪行を謝罪するという韓国巡礼Walk9という100日間の歩き旅にも参加しました。
 
 肩書きはよく知りませんが正木高志(敬称は付けませんが理由は以降を読めば分かります)という人物の講演会に昨年7月出かけ、原発施設の危険性を訴えるために青森県六ヶ所まで初回のWalk9を実施し、憲法9条を再び勝ち取り、今まで選挙に行かなかった若者を結集させて立候補させようという提案に、新しい息吹を感じるものがありました。 そのために9月から韓国巡礼の旅を実施するということで、若者でない我々の参加も可能だという回答をいただき一緒に歩かせていただくことにしたわけです。
 それまでに彼が記した全著作を古本市場で探して読み、その一環した思考に納得できるものがあり、それも参加への動機付けになったと思います。
 
 この韓国巡礼は、その正木高志が創案(というか声をかけただけ)し、実際の企画にあたっては日本の若者3名と韓国の若者が連携し準備して来たものでした。 (振り返ってみると、韓国の生命平和というグループに殆どおんぶに抱っこになっていたから歩けたのでした。) 素人の手作り旅と見受けられるもので、各所に不十分さを感じましたが、それは致し方ないことで参加者全員で作っていく巡礼であると理解し、例えば食事とか荷物運びとか自分達にできることは協力するつもりで参加したのでした。
 しかし、出発地点のペンションに合流した二日目にはもう正木高志に対し落胆せざるを得ない場面に遭遇したのです。
 
 自己紹介しても参加者の名前を一度に覚えることはなかなか出来ません。 でも言い方があると思うのですが、2日目の朝、手伝おうと構えていた鉢巻をしていた若者に、正木高志は、「おい魚屋さん、そこは邪魔なんだ」と言い放ったのでした。 名前は分からないにしても、もっと的確な言い方があると思うのです。 言われた本人がどのように感じたかは分かりませんが、その言い方に私自身に少し疑問が湧き始めたのでした。
 2度目に感じたことは、ウォークを開始してから、大地を感じれということなのでしょうか、全員黙って一列になって歩けと言い、少し列を乱した娘さんに、そんな歩き方は駄目だと小言を言うのでした。 歩きながらそれぞれの考えを交換したり、自然にある草花を見つければ花の名前を聞きたくなるものです。 そして、朝の出発前のミーティングで良かれと思って色々提案をしても聞き入れないのです。
 その歩き方に対しては、韓国の若者から旧日本軍を思い出させるものがあると言われました。
 
 そんな正木高志の態度を見て、これからは口を挟むのはやめようと家内と話していたのですが、10日目になって正木自身が考えたウォークとかけ離れたものになることを危ぶんだのでしょう、若者がすることを黙って見ていて欲しいと我々に注文して来たのでした。 すでに正木という人物に疑問を感じていたので、黙って聞くことにし、彼の態度に我慢できなければ日本へ帰国するのに都合の良いい釜山に来た時にウォークを離れても良いと思っていたのでした。
 
 それ以降彼を眼中に置かない形でウォークを続けていたのですが、ある村に泊まった時に村人との交流会が開かれ、その場にかつての大戦中に強制徴用され日立で働かされたという長老や日本軍から軍事教練を受けたという年配の方がおられ、そういう人達の悔しいという発言にリーダー的存在である正木は応えることが出来なかったのです。 当然、謝罪の旅と唱えていたのですから、そういう場面に会うのは事前に想定できたはずです。 ウォークに参加していた中年の韓国女性が長老をなだめてくれなければ、その場は納まらなかったでしょう。 彼等にしても我々一市民に訴えても意味なく無駄なことは分かっており、今互いに仲良くしなければと、その後の会は言葉は通じないものの和気藹々としたものでした。 ただ「ごめんなさい」という言葉ではなく、彼らに対し何も出来ないにしても、何か気持ちのある言葉をリーダーとして発して欲しかったのです。
 
 さらに、自身の宗教観をしばしば話す正木に対し、韓国の若者が違和感を感じ始め、日本人と韓国人の若者同士のイザコザに端を発し、正木が信ずるものは我々に関係なく、釈迦の言葉から取ったというオーム??という歌も必要ないと言い出し、最後は正木のWalk9と参加者のWalk9とは違うものであって、正木の存在は不要で日本へ帰ってほしいと要望したのでした。 そういう言葉に対し正木は耳を塞いでしまうのでしょう、全く回答もせずに、その韓国青年はしばらくWalk9から去ることになってしまいました。 誤解であろうと何であろうと、互いに話し合い相互に歩み寄るのが筋だと思うし、そうなった経緯を他の参加者にも説明すべきでしたが、正木にはそういう素振りがまったく見られなかったのです。
 
 毎日歩いて食べて寝るという繰り返しで、最初日本での講演会で聞いた憲法9条や日韓ひいては東アジアの平和への方策など、一切の話が行われないのです。 戦後教育の中で、日本の若者は日本帝国の犯罪行為を学んで来ておらず、そういう事実を学ぶことも必要であり、これから日本を作っていくために何が出来るか学習することも必要な筈でした。
そういう機会作りをリーダーとして行うべきなのですが、彼にはそういう気持ちがなかったようです。
 ある個人宅に数日20数名が泊めていただいた時に、そこの奥さんから平和のための話し合いが全く見られず、皆を泊めたのを後悔しているという話がありました。 実にその通りなのですが、正木は自分を非難されたと思ったのでしょうか、全く意見を述べず、最後には「自分のウォークは皆のウォークとは違うんだ」という言葉でした。 何が違うのかの説明はないのです。
 
 そもそも彼は王様になりたいだけの人なのでした。 食事となれば一番に食べ物を確保し、そして参加者より一段上のの場所に腰を下ろすのが常であったし、寝床は率先して個室を確保し他人を入れない。 部屋に電気カーペットや寝具があれば、当然のごとく自分優先で占有し、周りの物に使用を勧めることもしない。
 個室があれば女性を優先して入れてあげるのが筋でしょうが、そういう配慮は全くないのです。
 テグ近くの町でしたか、地域の市民運動を行っている事務所に泊めていただいたことがありました。 専従者を置いているがなかなか十分な給与を払えないでいると聞き、家内と韓国の女性がカンパを提案しました。 カンパは参加者の自由意思で行われ制約されるものではないのですが、そういう提案があればリーダーとして率先して賛同の意思を示すべきでしょう。 しかし、我々と一部の若者は十万ウオン単位でカンパしましたが、正木が箱に入れたのは数千ウオンという金額であったのです。。 これを円換算すると300円そこそこの金額であり、子供の小遣いにもならない小額なのです。 カンパである以上、金額の多寡ではないとは言え、そこにも彼には心が存在しないことがはっきりと見えていたのです。
 また、海印寺にテンプルステイした時に、早朝の勤行に出なかったのは正木一人であり、しかも神聖な寺院の敷地内で篠笛であろうか個人の演奏をしたため、説明役の僧侶が不快に感じられ、忙しいからと以後の説明役を退いてしまいました。
 
 韓国の参加者が長期にわたってバン型の車を提供してくださり、当初購入した車と2台で大変重宝していたのですが、彼からは彼女への感謝の言葉が全くないなど、その他色々あったと思いますがいちいち上げていたらキリがないので、韓国で出会った人が彼を評した言葉を残しましょう。
 
・彼に光を感じない(釜山で出会った青年)
・老いぼれた年寄りが最後の名誉をもとめて韓国を歩いている(韓国人参加者の父親)
・小さな人(ある寺院にて)
・エゴの塊(本人の身近な人)
 
 若い参加者はそこまで感じていないようですが、若者を日本からたくさん呼んでおきながら、大変無責任な対応だと私は思うのです。 5年間にわたって韓国内を歩いたという実相寺のトウゴ上人は農業、生活、教育といったことを含めた地域の住民運動を展開されており、同じウォーカーとして見た時、社会に対する責任感の有無を如実に感じるものでした。
 
 3月に韓国の参加者達が日本に来て、福岡、別府、大阪、東京、鎌倉と若者達が組織して報告会が開かれ、今後どのように活動して行けば良いか話し合いが持たれたそうですが(私はピースウォークに加わったため参加できず)、そういう若者が主催する会には正木は参加せず、独自の講演会を4月から始めているようです。
たぶん自分のWalk9がいかに素晴らしかったかを喧伝鼓舞する話をしているのでしょうが、その実態はこれまで記した通り、非常にお寒い内容であったのです。
 
 確かに彼の企画で多くの若者が韓国に集い、韓国の人や土地に触れて色々学ぶことが出来て、そういう意味では素晴らしい企画であったと思います。 しかし、そこまでするのなら、更に発展するような、当初から正木が唱えているような所作が何故行われなかったのか疑問に思えて仕方ないのです。 そういう意味で不完全な巡礼であったと言わざるを得ません。 彼にとって大変耳障りな内容を書いてきましたが、これは彼を糾弾するためではなく猛省を促し、彼の今後の活動をもっと意味のあるものにしてほしいからです。
 
 
 ピースウォークfrom沖縄と韓国巡礼Walk9、ともに平和を願うウォークでしたが、その裏には人間的な泥臭さが見え隠れし、日本の平和運動がいかに観念的であり実効力の無いものであるかを悟った次第でした。 ただ、その中でも種々の出会いがあり、自分にとっては大変意義のあるもので、これを全く否定するつもりは毛頭ありません。 料理でいえば、もう少しスパイスを効かせて欲しかったということでしょう。 ウォークにはいいことも楽しいことも一杯あります。 そんなことだけを記憶にとどめながら、次のウォークにも再び参加したいと思っているのです。
 

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