遠藤周作さんのエッセイ集「無駄なものはなかった」を読み終えた。
この本は、1983年から1996年にかけて書かれたエッセイの中で、人生をテーマにしたものが集められている。
章のタイトルを一覧にすると、
1.自分の名について
2.仏蘭西にいく船に乗って
3.私のキリシタン
4.本との出会い
5.老いの辛さ
6.こわがり屋の死にかた
7.人生楽しむこと
8.無駄なものはなかった
軽妙洒脱だが、奇をてらわない表現に感じる段落は多い。
「私とキリスト教」の項では、400年以上前に長崎のセミナリオで西洋文化を学ぶ日本人がいたのに、その後の禁教令があったにしても、現代に至るまでキリスト教が日本に広まなかった理由を次のように述べている。
それは、キリスト教とは相容れない感覚を、日本人がすでに持っているのだと、「神にたいする無感覚」、「罪にたいする無感覚」、「死にたいする無感覚」を挙げている。 この「無感覚」は、「無関心」と言い換えてもいいだろう。 この無関心さは、「東洋的な宇宙感や東洋的な汎神論」から来ていると氏は説く。 さらに、西洋的な道徳観より、美的な審美感が優先されるからだとも云う。
神の代わりに大きな自然や、宇宙にそのまま吸いこまれていきたいという感覚、東洋的な諦念の世界を日本人は心の中に郷愁として持っているので、西洋的な善悪の理念とは融合できないということのようだ。
そうは云っても世の中は足早に変化し、我々は多くのことを学んで来たはずだ。 キリスト教だけでなく、もっと幅広く世の中を見た時、例えば、先の大戦後、占領軍(アメリカ)の意のままに戦後の日本が作られ、「一億総中流」などという言葉にだまされ、政治や社会体制に疑義を唱えない日本国民が育ってきたと見ると、この説に納得できてしまったのであった。 搾取され、金権主義が横行する世の中にあっても国民は何ら変わらない。 その因を氏のこの行間の中で悟った気がした。 この「無感覚」や「無関心」が、結果として社会を悪化させ、金の亡者を太らせているわけだ。
本書の中では、やがて来る「老い」や「死」についても言及しており、なるほどと思える箇所だけをイメージにおとしここに残した。
著作の「沈黙」は学生時代に読んだし、たぶん「深い河」も読んだと思うがあまり記憶がない。 昨年、古本店で、「沈黙」と「イエスの生涯」を見つけ読み直してみようと購入したが、凝り性がなくなったのか未だ読めないでいる。
なお、本書は「人生のエッセイ」と題されたシリーズもので、日本図書センター2000年発刊。 遠藤さんを含めて、次の素晴らしい人生を過ごされた方々のがあるようで、それぞれアンテナを高くして探そうと思う。
1.宇野千代 何でも一度してみること
��.遠藤周作 無駄なものはなかった
��.開高 健 眼を見開け、耳を立てろ そして、もっと言葉に・・・
��.神谷美恵子 いのちのよろこび
��.住井すゑ 生きるとは創造すること
��.谷川俊太郎 あいまいなままに
��.寺山修司 目を醒まして、歌え
��.萩原洋子 ダンスで甦った生きる喜び
��.武満 徹 私たちの耳は聞こえているか
��0.淀川長治 映画のある限り百年二百年でも
私事だが、遠藤さんの風貌を見ると、中学高校時代の友人がそっくりであったと必ず思い出されてしまう。 遠戚だと聞いたような聞かなかったような、まことに不確かな記憶なのだが、彼は卒業後ドイツに渡り、パイプオルガン製作のマイスターを習得し、今や日本における、その道の第一人者ではないかと思う。 進学後も卒業後も、自分とは歩く道が異なり、もう会うこともなくなってしまったが、何故か彼のことが思い出されてしまうのである。
もう一つ、これもあまり意味がないのだが、この記事を残すにあたって調べていたら、遠藤さんが他界された日が何と自分の誕生日であった。 因縁というか、関わりを感じざるを得ない。 もっと氏の心に触れなければという想いを深くしてしまった。
1.私とキリスト教
1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・ 5
2.六十にして惑う
1 ・ 2 ・ 3
3.老人と翁
1 ・ 2 ・ 3
4.こわがり屋の死にかた
1 ・ 2 ・ 3
5.老いれば死ぬのは怖くない
1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6
6.神の働き、人生の意味
1 ・ 2 ・ 3
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