いよいよ衆議院議員選挙である。
以前、東京からの客人を迎えていた時に、羽田孜氏の子息が選挙カーに乗って町内を巡っていたが、その客人の息子さんが友達らしく、拡声器の声を聞いて追いかけたが結局会えず終いであった。
今回はどんな選挙カーが走ってくるのであろうか? 1万人そこそこの信濃町には回ってきても、つかの間で過ぎ去ってしまうであろう。
それにしても、自民党の定年制に反して、出馬しようとしている老獪な2人はどうにかならないものか?
自民党が公明党に尻尾を振っているのも問題だ。
先日都内の下町を歩いたが公示前というのに公明党のポスターがあちこちに貼られていた。 また、電車のつり広告には、母体の宗教団体の雑誌広告が目立つようになり、個人の家の脇には自由に持っていけと、機関紙が置いてある。
宗教と政治の混迷は、将来に禍根を残すことはヨーロッパの過去を見ても明らかである。 真の宗教観を持たない日本人にはこういう組織に対しては甘い判断しか持たないのであろう。 そしてオウムのように社会的な犯罪として認知されるまでに組織はどうにもならない程に大きくなってしまうのである。 黒姫高原ニュースと題しているのに関係のない話題になってしまったが、日本社会には憂慮に堪えないことが多い。
その憂慮の幾つかが、アメリカ大統領であるブッシュ、日本国総理大臣である小泉、東京都知事である石原、中曽根老害(老獪)元衆議院議員、そういった輩の存在である。
強いイメージの中で、政治を動かしているような幻覚を彼らは民衆に与えているが、その実、国の将来の礎になるようなことは何もしていないのが事実である。
しかも、憲法9条の形骸化をはかるべく、自衛隊の海外派兵をたくらんでいる。 税金や各種社会保障制度にしろ、改正とうたいながら制度存続の安易な手段として、国民への負担を強いているのである。 そういう実態を見ないで候補者を選んだり、投票所にいかなかったりする人がいるというのは、どういう見識なのか?
そういう現実を見ないように、物事を考えないように、体制に迎合するように、国民を仕向けてきたのが戦後教育なのであろう。 その挙句のはてが犯罪やいじめなど、社会事件とした形で毎日の新聞紙面を賑わしているのである。 戦後政治にかかわってきた政治家の責任は与党にしろ野党にしろ重いはずなのだが、わかっている人は少ない。
先日、亡くなった元環境庁長官の大石氏のようなすばらしい政治家が輩出することを願うばかりだ。
(旧徒然日記から転記)