25日(日)の信濃毎日新聞のHPには、一茶30歳の真筆が発見され無名時代探る手掛かりになると、次の文面が掲載されていた。
上水内郡信濃町出身の俳人小林一茶(一七六三―一八二七年)が三十歳ごろに和歌の勉強で記した文書を、弟子の村松春甫(しゅんほう)の八代目の子孫、長野市長沼の村松正雄さん(89)が所蔵していることが二十四日分かった。一茶が若いころ用いた署名があり、筆跡も一致。一茶研究家の千曲山人さん(75)=同市稲田=が真筆と確認した。資料が少ない時期の一茶を知る貴重な手掛かりとなりそうだ。
文書は、横約三十センチ、縦約十五センチの紙三枚に書かれ、掛け軸に張り付けられている。新古今和歌集の本歌どりを考察した文章を書き写したとみられ、末尾に、一茶が天明七―寛政八(一七八七―九六)年に使っていた「菊明坊一茶」の署名がある。その筆跡や文書の書体などから確認できた。寛政三―四年ころの書とみられるという。
この時期の一茶は江戸の俳壇での成功を目指していた。借りた書物を書き写し、資料にしていたことが知られているが、詳細な日記が残る中年期以降と比べ、不明な点も多いという。一茶研究が専門の矢羽勝幸二松学舎大教授=上田市=は「無名時代の様子が分かる大事な資料」と評価する。
本歌どりは、詠まれた和歌の一部を自らの作品に生かす技法で、広い和歌の知識と即興性が求められる。俳句でも「もじり」と呼ばれ、応用された。千曲さんは「一茶ももじりを多く取り入れており、その基礎になった若いころの勉強家の側面が分かる」と話している。
しんまいのHPは一週間で掲載が削除されるため、敢えてここに転載した。
(旧徒然日記から転記)
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