”宗教はアヘンである”と言ったのは、マルクスだったかレーニンだったか、よく知らないが、麻薬摂取のような快感があるからこそ、入信者は疑問を持たずに苦行にも耐えるし、異様な行動に出ることもできるのであろう。
オウム全盛期に、秋葉原界隈で異様な装いをした若者たちが、”安いよ!”とパソコンのチラシを配っていたのを思い出してしまった。 あのように、オウム教に類する新興宗教が規模を拡大するポイントは「人と金」であろう。
どんな崇高な教義があろうと、布教活動の中では、より人間臭く、より経済的であり、より戦略的なのであり、その姿は企業運営と全く同じなのである。
通勤電車のつり革広告でよく見る写真だが、ある団体のリーダーは、世界の著名な人物と一緒に写っている姿をたびたび掲載し、あたかもその著名人と心を一にしているんだと、見る人間に暗示をかけている。
それだけ、ドロ臭く人間臭いのが、新興宗教の実態なのであって、そこに崇高さは微塵もない。 宗教であろうがなかろうが、信者にとっては組織に存在することの安心感が、確かに個々には感じられるのだろうが、反面、そういうドロ臭さの中で、組織的に利用されていることを分かってほしいと思う。
そのような実態を知らずに、その教義が絶対唯一と入信する者が何と多いことか、非常に疑問に思えてならない。 八百万の神を信望してきた日本人は、頼る物は何でも良いのであろう。
それが企業であれ商売であれ、自分の存在感を感じさせてくれる組織なら何でもいいのである。 逆に言うと、本来の普遍的で親和性を持ち、排他的でない、本来の信仰を知らないのである。
平和活動を一貫して推進している日本山妙法寺や、先の大戦でなくなった戦没者の遺骨を供養する活動を行っていた松本の神宮寺住職のような姿が、本来の宗教者の姿であって、そういう所に本来の「魂の救い」が存在するのである。
再び言うが、排他性を持つカルト集団は、宗教でも何でもなく、ヤクザ集団と同じ。 信者はただ利用されているだけなのである。 絶対入信しても本来の安然を得られることはない。
(旧徒然日記から転記)
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