親鸞の命日にあたり、聖人の苦労をしのび、阿弥陀如来に救いを求めるという浄土真宗の法要が、知人のお寺さんで行われるというので荒瀬原まで先日家内が出向いた。
親鸞の命日は旧暦11月28日だそうで、全国的には10月下旬から12月に行われているが、この季節、信濃町は雪の世界だから、春を迎えた今の時期になってしまうのであろう。
出席していないので詳しいことは分からないが、法要だから、お坊さんのお経や唱和、法話を聞く会なのであろう。
配布された九州龍谷短期大学出版の「いのち」という小冊子をいただいてきたので読ませていただいた。
大学の機関誌のようで先生や生徒達がテーマ毎に所信や感想などを書かれ、その真摯な姿勢に心感じるものがあった。
その中で、金子みすず館の館長が、門徒であったみすずの歌と生きることを平易に書かれ、なかなか納得できるものであった。 やはり、人間には全宇宙的な、”優しさ”と”共生感”が必要なのであろう。 みすずの歌とともに読んで行くと、仏教もキリスト教でもない何か普遍的な境地に浸ることができるのである。
こッつん こッつん
打(ぶ)たれる土は
よい畠になって
よい麥(むぎ)生むよ。
朝から晩まで
踏まれる土は
よい路(みち)になつて
車を通(とほ)すよ。
打(ぶ)たれぬ土は
踏(ふ)まれぬ土は
要(い)らない土か。
いえいえそれは
名のない草の
お宿(やど)をするよ。
この世にも、あの世にあるものも全てが意味あるもの。
仏教の”今に生きる”も、キリスト教の”全てに時がある”にも共通性が感じられる。
(旧徒然日記から転記)
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