野尻湖フォーラムの35号が届いた。 今回は、「特集
どうなる野尻湖、どうする野尻湖」と題して、野尻湖周辺で別荘人として、仕事人として、学芸員として 関わって来られた方々の寄稿があった。
巻頭に、
年々、活気のなくなっていく感のある野尻湖。静かな湖畔といえばそうですが、廃れた観光地というイメージで人がいなくなるのは寂しい限りです。観光客や別荘人の遊びの質や価値観も時代とともに変化し、これまでどおりのやり方では通用しなくなっているのも事実ですし、豊かな自然美の野尻湖の魅力を生かしきれずにいる地元の責任も大きいと思われます。 ....
更に、編集後記には、
野尻湖が本当に華やいでいたのはいつのことでしょうか。単に人が多いというだけではなく、町に活気があったのは。
野尻が悪くなったのは、大型遊覧船の桟橋条例違反以来だという人がいます。決まりごとを守らなくても良いという風潮ができてしまったせいだと。無許可桟橋は依然減らず、その他違法行為も後をたちません。 .....
とある。
国道18号線の野尻バイパスが出来てから、とみに観光客が少なくなったと聞いてはいるが、このように観光地としての価値が下がり、別荘人も含めた住民にとっても野尻湖が特別の存在ではなくなってきたのは何故であろう。
多様化の時代に取り残され、身勝手な世の中という風潮が野尻まで吹き寄せていることも事実。 しかし、記事の中に、野尻湖の町づくり計画の経緯が記載されているが、戦後60年日本という国がたどってきたように、箱物行政にばかりに皆の心が囚われ、古から続く我々の文化を容赦なく捨てて来ていることに起因しているように思った。 そして、観光事業として成り立たせるにはどうするか、最後は個々の観光業者の収支はどうなるのか、そんなことばかりに目が向かっていたのではないかと思う。 従い、客が来ないのは計画した箱物が実現しないからなのだと、その原因を転嫁する。 そういう構図が出来上がっているのではなかろうか。
金儲けが第一にきたら計画は頓挫し、人の心は離れるものだ。 野尻湖を周辺の住民だけでなく、信濃町全体の宝物として、我々が先祖から引き継いで来たように、これを後世に伝えるためにはどうするかを、一人一人が考えることから出発しなければいけないように思う。 (別荘人など一時居住者も含め)住民自身の問題として捉え、自分たちができることを重ねていけば、最後は観光事業も自然と後からついてくるものだと思う。 確かにある程度の形ができるまでの道のりは厳しいものがあろう。 しかし、築きあげた物を自分たちの子々孫々に残せられればと思えば、汗した努力は無駄にならないはずだ。
先日、町が進めている癒しの森事業の一つである"
象の小道"を歩いた。 所々に"癒し"に関したウンチクが書かれた看板はあるが、生い茂った枝の間から水面がわずかに見えるだけで、野尻湖を渡る風を感じる場所(椅子)もない。 "癒し"は教えられるものでなく、自ら感じるもの。 あの自然の中でどうしたら豊かな心を持てるようになるか、満ち足りた気持ちになれるか、そういった人々の発案から自然と好ましい"象の小道"の姿が出来上がって来よう。 受け売りの能書きなどはまったく必要がない。
同じようなことが一茶(記念館)についても、黒姫高原についても、特産である蕎麦についても、言えるであろう。 北海道旭川の動物園が大変な人気だと聞く。 動物の習性を研究した職員達の発案や試行錯誤があのような形で実ったわけだ。
明治時代、
中勘助が独り渡り執筆した琵琶島には、上杉軍のたくさんの兵士が眠っている。 ナウマンゾウの太古から生きてきた自然と民の心が野尻には息づいているわけだ。 実に、信濃町には宝物が沢山あるのだから、その宝物を町民一人一人がエゴを捨て、如何に生き続かせるか考えること、それが大事であろう。 そして、その結果として観光事業は自然に付いてくるものだという確信を持っていることが必要だと、この35号を読んで思った。