今年の春、良寛の里を訪ねたことがきっかけとなって、中野孝次さんの数々の著作に出会い、また生前に須坂の浄運寺で例年夏に行われている無明塾で講師をされていたと知り、我々は今夏初めてその無明塾に参加することが出来た。
その中野さんの著作の中で一番知られているのが、「清貧の思想」であろう。
生活を極限にまで簡素化し、心のゆたかさを求めた われらの先達。
西行・兼好・光悦・芭蕉・大雅・良寛など 清貧に生きた人々の系譜をつぶさにたどり、われら今いかに生きるべきかを改めて問い直す。
と帯に記し、冒頭から、前田家の殿様へ茶の具を譲れという申し出を断った本阿弥光悦、そして母親の妙秀(みょうしゅう)のエピソードを載せている。
語録を見ると妙秀は、貧困ゆえに起こる不幸よりも富貴が人の心に及ぼす害毒を重視し、人でなしとなって富貴であるよりは貧しくて人間らしいほうがよほどよい、と考えていたようなのである。
そんな出だしの「清貧の思想」だが、引用に古文や歌があり、なかなか読み進めないでいる。
所が、小崎登明さんの「十七歳の夏」という著作を読んでいたら、中野さんの著作の中で小崎さんを紹介してくれたとあり、中古本検索で見つけたのが、この「清貧の生きかた」であった。
この本は、中野孝次さんが「清貧の思想」を出版されてから、「たんなる貧乏礼賛とか貧乏へのすすめ」だと理解され、批判する人が多かったため、これが「清貧」な生き方だと、具体的に紹介しようと纏められたのが本書なのである。 従い、本書は、「中野著」ではなく、「中野編」となっている。 その目次を示そう。
清貧の生きかたとはどういうものか 中野孝次 Ⅰ 内面への旅 - 俗を離れて その先生の心田 水上 勉 真実の自己を求めて -捨ー 坂村真民 清貧との出会い 小崎登明 II 自然との共生 森の世界 高橋延清 木のはなし 志村ふくみ 崩れ 幸田 文 自然の遊行者 今西錦司 五つの根 山尾三省 洟をたらした神 吉野せい III 古典に学ぶ - 清貧の系譜 本阿弥行状記 空中斎光甫 方丈記 鴨 長明 徒然草 吉田兼好 良寛禅師奇話 解良栄重 IV 清貧に生きる ゼイタク論 三木 卓 酒屋へ三里、豆腐屋へ二里 安岡章太郎 貧乏論 鈴木大拙 失われた時を求めて 中村達也
吉野せいさんの「洟をたらした神」は、遊び道具を自分たちで作り出した、あの子供時代を思い出させてくれ、大変懐かしい。 また、最後の「失われた時を求めて」では、ミヒャエル・エンデの「モモ」についての記述がある。
ところが、モモを取り巻く世界は、「時間泥棒」によって支配され始めている。 人間らしく生きるための、ゆったりとした豊かな時間がじだいに失われて、人々は、「時間がない」「暇がない」と口々に語り始める。 人々は、「良い暮らし」のためと信じて、必死に時間を節約し、せかせかと追い立てられるようにたち働く。 大人達だけではない。 子供達までもが遊びを奮われて、「将来のためになる」勉強をあてがわれる。 そのようにして節約された時間が「時間泥棒」の命の糧なのである。
黒姫童話館は、エンデの作品を展示する所から始まっているが、エンデの生涯や彼の作品を展示しているだけであると記憶している。 童話「モモ」にそれほど深い意味があったとは知らなかったのだが、「清貧な生き方」を示す作品として、子供たちへの具体的な説明があってもいいように思う。
今日の暦から : 愛情料理は身につく
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