「田舎」とは、文字とおり田畑と家ということであろうが、都会の人間が都会から地方を見た雰囲気があり、田舎-私の場合は「黒姫/信濃町」なのだが-の中にいる時には、この言葉の中に何か都会の優位性を含んでいるようで、「田舎」という言葉を発するのが憚られる。
2005年8月7日・日本経済新聞朝刊「漢字コトバ散策」(中国古典学者 興膳 宏)より
(前段 省略)
「いなか」とは、もと都から離れた地のこと。 「田舎」と書くが、「田舎(でんしゃ)」は漢語、「いなか」は和語で、元来は別の語である。 いつのころからか両者が融合して一つになった。 いま中国語で「田舎」とは「郷下(シャンシア)」といい、「田舎」では通じない。
「いなか」は、すでに『万葉集』に見えている。 「昔こそ難波ゐなかといはれけめ今都引き都びにけり」。 藤原宇合(ふじわらのうまがい)の歌で、「ゐなか」は「居中」と記される。 平安時代の『伊勢物語』や『源氏物語』でも、やはり「ゐなか」 「ゐ中」などと表記されている。 『伊勢物語』では、つい先年まで都のあった長岡(長岡京市)も、「ゐなか」といっている。
「田舎(でんしゃ)」も古い漢語で、元来は田地と家のことだったが、やがていなか家(や)を意味するようになる。 陶淵明の「癸卯(きぼう)の歳(とし)始春、田舎に懐古(かいこ)す」と題する詩は、まさに「いなかの家」のことだし、杜甫にも「田舎」の詩がある。
田舎 清江(せいこう)の曲(くま)
柴門(さいもん) 古道の旁(かたわら)
この「田舎」は、杜甫が安禄山の乱を逃れて成都郊外に立てた草堂(そうどう)のことである。「田舎」からは、こうした具体的な形を持つ家がイメージされるが、李白の「秋浦(しゅうほ)の歌」にはやや違った使い方が見られる。
秋浦 田舎の翁(おきな)
魚(うお)を採りて 水中に宿る
これは「いなかのじいさん」のことで、いまの「田舎」にずっと近づいている。
この間、東京で寄席をのぞいたら、噺家(はなしか)がいっていた。 「あたしの田舎は電車一本で行けるんですよ。 エエ、九州の博多なんですけどね」。 田舎はますます都から近くなった。
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