無言館を訪ねる人は、あの時代にあって忌まわしい戦争に翻弄された学生達に哀しい思いを懐き、"戦争がなかったなら"というふうに感傷的になることであろうと思う。 館内の入場者のそれぞれの顔を具間見ると、どの人も真剣な表情で作品を直視しているからである。
先日、この無言館前にある碑文にペンキが塗られるという悪戯があったが、そんな悪戯をした人にも、この場所が先の大戦を否定する"非戦や反戦の場"だという認識があったためであろう。
この番組の中で、山田洋次監督が、「あの戦争が1年でも早く終わっていたら、ここに飾られている画を描いた学生達は生きながらえていたろうに」というふうに言われた。 その言葉通りであり、誰も思うことでもある。
しかし、全国を駆け巡り、戦没画学生の作品蒐集に奔走された窪島誠一郎氏は、「あの時代の画学生は青春を生き抜いたのだ」と言われた。 確かに反戦の思想もあろうが、「ここは画学生が今でも生きている青春の場所」だという言葉に、何か新しい発見や認識があったように、胸に衝くものを感じた。
まぁ、NHKという政府のプロパガンダである以上、特質した意見を出さないことを念頭に置いているのであろうが、それにしても、無言館の存在の意義を新たに知らしめた言葉であった。
最近は、若い人々の来館が多いとのこと。 団体旅行のついでに入場した年寄りが出口で払う入館料を避けて正面から出て行ってしまうことに怒りや悲しみを感じていたが、それ以上に若い人々が来てくれ、我々の同胞に心を寄せる姿に、日本の将来に一類の希望を感ずることができるものである。
無言館には、これまで3~4回訪ねているのだが、この次にに訪ねる時には、窪島氏が言われた「彼らの青春の作品に会う」気持ちでいようと思う。 それにしても、窪島氏のキラキラした眼差しに、何か日本人への優しさや深い愛情を感じた。 "こころ"を大事にする気持ちが、物事の原点であろうと、窪島氏の表情を見て強く感じたのであった。
NHKのサイトにあったこの番組の紹介文を次に残した。
新日曜美術館 「シリーズ 戦後60年 (3)
~戦没画学生、カンバスに込めた青春の思い」 前9・00~10・00 (再)後8・00~9・00
「あと5分、この絵を描かせてくれ。小生は生きて帰らねばなりません。絵を描くために......」
太平洋戦争中、多くの若い命が戦地に駆り出され、戦場で消えた。
その中に、生きて帰って再び絵を描くことを望みながら死んでいった、400人近い画学生たちがいた。
戦没画学生の作品を集めた美術館として1997年に開館した「無言館」(長野県上田市)には、58名、600点近くの作品と遺品が収蔵されている。勉強途上で戦地に追いやられた彼らの作品は、どれもが未熟な習作ばかりである。しかし、未完だからこそ、プロの画家には見いだすことのできないインパクトがある。彼らは残された、わずかな時間の中で、自分が最も大切だと感じるものを描いた。父、母、妻、友......。それらの絵からは、キャンバスと絵筆によってしか、自分が生きた証を残せなかった彼らの、不器用なまでの「生への希求」をうかがい知ることができるのである。
今年、無言館では戦後60年を記念して、作品・遺品の調査整理が進み、未公開作品の展示が行われている。「人にとって一番大切なものは何か」、番組では、絵画作品を中心に、手紙・写真・遺族の証言などを通して、戦争に直面した画学生がどう悩み、どう生きたのかを掘りさげたい。
●最後の瞬間まで、一番大切な人を描きたい
無言館には、家族、恋人など愛する人をテーマにした作品が多い。東京美術学校を卒業した中村萬平は在学中にモデルをつとめてくれた霜子と結婚。出征直前に描いた作品『妻の像』には、萬平の「最愛の妻を描くのはこれが最後になるかもしれない」という思いがあふれている。霜子は身ごもっていた息子を出産するが、彼女は半月ほどで病死。妻の死を戦地で知った萬平は、満月を仰ぎながら泣いたことが手紙に記されている。その萬平も半年後に戦死。この絵は、萬平が霜子と息子に残した、唯一の愛の証となったと、息子の暁介さんは語る。
●60年前と今をつなぐ「青春美術館」
無言館がオープンしてから8年。来館者からのさまざまな反応が感想文ノートに記されている。「これで戦没者が救われる」と歓迎するもの、「遺族の心情を利用した客寄せ商売だ」と非難するものなどさまざまだが、その中に大学生の印象的な言葉がある。「過去を忘れて生きてきた自分を恥じます。そして、自分はこの幸せな平和な時代に何をして生きていったらいいか考えようと思いました」。無言館は、20代で戦死した若者たちの自己主張がみなぎる空間であると同時に、現代の若者たちの生き方にも訴えかける「青春美術館」なのである。
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