昨日、記した「野尻湖物語」の中に、「国際村九八番」という項がある。 昭和時代の初期、柏原や古間で鍛冶の機械化をすすめ、ルバーブなどの野菜の植付けなど農業への取り組みもされたカナダ人宣教師ARストーン(アルフレッド・ラッセル・ストーン)さんが、戦後まもなく夏の休暇を取った館の番号が98番だという。
その後、北海道へ赴任されたストーンさんは、東京で会議があると1954年青函連絡船「洞爺丸」に乗った所、台風の直撃で船が転覆し、自らの救命胴衣を青年に渡し、船とともに水底に沈んだと言われている。
三浦綾子の「氷点」には、このストーンさんの献身的な姿に倣った記述がある。 旭川の医師辻口啓造が東京で開かれる学会に出席するため、この洞爺丸に乗船していたのであった。
「氷点」の記述では、危険回避のための七重浜座礁であったようだが、
啓造は壁の上に立っていた。 もう一方の壁は頭上にあった。 船窓から音を立てて海水が流れこんできた。 みるみるうちにくるぶしまで水がきた。 電灯が海水を明るく照らしていた。
ふいに近くで女の泣声がした。 胃けいれんの女だった。
「ドーシマシタ?」
宣教師の声は落ちついていた。 救命具のひもが切れたと女が泣いた。
「ソレハコマリマシタネ。 ワタシノヲアゲマス」
宣教師は救命具をはずしながら、続けていった。
「アナタハ、ワタシヨリワカイ。 ニッポンハワカイヒトガ、ツクリアゲルノデス」
啓造は思わず宣教師をみた。 しかし啓造は救命具を宣教師にゆずる気になれなかった。
��中略)
汽車の中まで照り映えるような、紅葉と美しい水の大沼もすぎた。 新しい命を得てながめる風景は、くるしいほどに美しかった。
(あの宣教師は助かったろうか?)
あの胃けいれんの女に自分自身の救命具をやった宣教師のことを、啓造はベッドの上でも幾度も思い出したことだった。 啓造には決してできないことをやったあの宣教師は生きていてほしかった。 あの宣教師の生命を受けついで生きることは、啓造には不可能に思われた。
あの宣教師がみつめて生きてきたものと、自分がみつめて生きてきたものとは、全くちがっているにちがいなかった。
と、書かれている。
野尻湖畔の観光船乗り場付近には、ストーンさんの記念碑が建てられ、その偉業をたたえている。
さて、三浦綾子の作家活動を展示している三浦綾子記念文学館が、北海道・旭川にある。 文学館の隣には営林署の見本林があり、そして幼いルイ子が命を落とした美瑛川が流れている。
我々は会員として既に済ませているが、この文学館が新たに増築すると、現在その資金を募っている。 最後にアサヒコムに記載された記事を残そう。
三浦綾子文学館、増築資金を募る 資料保管のため
2007年09月08日11時06分 アサヒコム
北海道旭川市を拠点に作家活動をし、『氷点』などで知られた三浦綾子さん(99年死去)をたたえて地元に建設された記念文学館が、来年の開館10年を前に増築資金を募っている。三浦さんは生前、「恐れ多い」と建設を固辞したというが、約3000人のファンの支援で設立実行委員会が作られ、建設が成った。
闘病生活を経て人生の不条理、宗教の意味など、人間存在の根源を見つめた三浦作品の愛読者が年間約2万人訪れる。韓国を中心に海外のファンもやって来るという。
増築の主目的は、三浦さんや、創作上の「伴走者」だった夫の光世さん(83)が集めた取材資料などの整理と保管だ。約90平方メートルで予算は3000万円。来春完成を目指す。
北海道大名誉教授で、三浦綾子記念文化財団理事の工藤正廣さんは「三浦さんの作品は多数の翻訳を通し、アジアや欧米でも愛されている。北の地に根をおろし、人間の生を見つめ、未来に向けて思考を重ねた作家の足跡を残すため、支援を仰ぎたい」と話す。
少額でも歓迎。07年末まで。郵便振替で「財団法人三浦綾子記念文化財団」(口座番号02760―3―64846)。問い合わせは文学館(0166・69・2626)。
三浦さんの写真を飾る文学館の一角。作品の息づかいに触れようとファンが訪れ、海外から来る人も=北海道旭川市で
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