オウム真理教の松本被告に対する判決がやっと出たが、死刑制度そのものに対し疑問を持つものの、かかる被害の大きさから見ると、やむを得ない判決であったと多くの人と同様に思った。
逆に、あれだけの色々な被害が暫時露見していたのに、検察や警察などの司法体制側が事前にチェックし、被害を大きくせずに済ませる手立てがなかったのか疑問に思えてならない。
オウムを始め、ここ100年来に発生した宗教団体はカルト集団とされる。 確かにカルトはカルチャー(文化)に語彙の起源を一にしている所ではあるが、近代では排他的で狂信的な集団を言うことが多い。 逆に、本人達にとっては、排他的でないと組織固めをすることができないということなのであろう。
だから、一般の人はこれらの集団を見ると奇異に感じるのである。 集団自殺や合同結婚式、輸血拒否などはその典型であろう。 相対する人々とあくまでも対話による理解を求めようとせず、自らの狭い教義を強烈に推し進めようとし、その目的にかなう合法的な手立てを持たない教団は、あのような手段を取らざるを得なかったのである。 逆に言うと、合法的な手段で、排他的なカルト集団を大きくしようとしている団体は形を変えて他にもあるということなのだ。
テレビでよく見る有名人やスポーツ選手の多くも、このような教団や宗教団体に属しているらしいが、本人はかかかる教団や団体から多くの支援を得るという恩恵に浴し、また団体は当人が御旗になることで社会に認知してもらうというメリットを得ているのである。
しかも、一般の人々はそういう有名人が所属する集団にいることであたかも自分がその有名人になった気分になり、しかも組織に属することで、自分一人ではないという一種の安然を感じているのである。
個人個人の立場であれば、それも構うことではないかもしれないが、著名人が形を変えて宣伝役をこなし、オウムのように極端な排他性を実行するのは問題だ。
加え、オウムのようではなく、形を変えて社会に溶け込んだような広報等の手段を持つ団体についても問題があるし、これらが政治や権力機構に入り込むと、教団に沿った特殊な体制を産む結果となってしまうのである。 その教団が何であるか、ここでは敢えて書かないが(当然分かることだが)、皆よ、目を開け、彼らの真の意図を見抜け! と、言いたい。
今の日本の政治体制がまさにそうなのである。
自民党も民主党もあからさまに宗教組織の支援を受けている。 組織票を集めやすいという効果はあるが宗教の自由をうたっている憲法の精神からも逸脱しているのである。
更に、国会で一国の主がきちんと説明責任を果たさず、排他的に自分は間違いないという一点張りではどうにもならない。
こういう姿勢の中にも、オウムのような排他集団の存在を許しているのではないかと思われる。 国旗や国歌の問題も同様。 官僚機構の中にいる者たちは、こういった事件を対岸の火とせず、自らの職務の社会的な現れの一つとして、真に親和性のある社会作りをするためにはどうすれば良いのか、それぞれの立場で真摯に考えてもらいたいものである。
(旧徒然日記から転記)