当初は、兵庫南部地震と呼んでいた阪神・淡路大震災が起きて10年が経過した。 あの時、被災状況を伝えるテレビ画面に釘付けになったことを、昨日のように覚えており、あの限られた狭い地域で死者数がどんどん増えていくことに驚愕の思いを感じてた人は多かったと思う。
これまでも色々な災害があったが、先の大戦後の高度成長経済下で、日本人の心に暗い影を落とした初めての最大の災害であると同時に、ボランティア活動というものを教えてくれた貴重な災害でもあったと思う。
時々刻々と被害状況が伝わってくる中で、家内は居ても立ってもいられないと、2月初旬、登山用品店に行き軽くて暖かいという寝袋を買って、神戸へ向かったのであった。
発生後2週間ほど経っていたので救援活動も少しずつ組織化されつつある時ではあったが、未だ寒い中、再建の見通しのない時期でもあった。 家内は得意としていた炊事班に入り、ボランティアの食事の世話をし大いに感謝されたようだった。
(ボランティア活動については、神戸元気村代表であった山田和尚氏が書かれた「いのちの力をつかまえろ」という書物に詳しく記述されている)
自分が神戸に入ったのは、震災後3ヶ月を経過した時で、大阪から神戸に進む電車から見る光景は、青いシートで覆った民家や、崩れたままのビルが目立ち、長田駅に降り立ってからは、公園の仮設テントや倒れたままの墓石、焼け落ちたクズ鉄など、地震発生時の惨憺たる光景を思い起こさせるに十分なものであった。
テレビから垂れ流しされた映像はあくまでも架空空間。 老いも若きも多くのボランティアがおられたが、何もできなくてもいい、あの地に立ち被災者と共感することが必要であろうと思った。 あの被災者の悲しい思いは、あの場所に立たないと感じられないからである。
昨年の中越地震のみならず、三宅島、長崎普賢岳、北海道有珠山、台風による浸水・崩落等々、我々には大きな災害が繰り返されている。
発生の度に、自衛隊や消防関係など大きな働きをしてくれているのだが、ある程度落ち着くと自己責任とばかり役所は何もしてくれない。 10年を経た現在でも老人の孤独死や精神的に立ち上がれない人々が数多くあると聞く。
いつも思うのだが、大きな被災に対し国がもっと歳費を投下して援助すべきである。 被災家族を援助するためと無利子の貸付金制度などが設置されるが結局返さなければいけないもの。 被災家族がどうにか自立できるだけの篤い支援を国レベルで行うことを我々はもっと要求すべきでないかと思う。
と同時にスマトラ沖地震のように、我々は地球規模で我々の生命維持を考えなければいけない時期に来ているのである。 地域紛争に巻き込まれることなく、はたまた災害復旧を自国経済に利用するのではなく、真に地球という生命体を平安のうちに生かす手立てを皆が考えて行く必要があると、地震発生10周年に際し、そんなことを思ったのである。
(旧徒然日記から転記)