お知らせ

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*自戒を込めて-> テレビ(大手メディアを含め)はバカ箱、ウソ箱ニュースやワイドショーからは嘘を植えつけられるし、思考痴呆にもなります。

日本の政治や社会を、自分の眼で見て、自分の頭で考えるようにしたいものです。





「公共放送」と名乗っているNHKや態勢迎合の低俗局(フジサンケイや読売)、大手新聞社(朝日・毎日)等は時の政府になびくような番組や紙面作りをし国民を騙し洗脳しているのです。 「ゴミ箱」同様の「マスゴミ」情報は信用に値するものであるか、自分の頭で判断したいものです。

*ネットニュースにも、偏狭(偏狂)新聞社やテレビ局のものが掲載されています。 やみくもに信用しない、鵜呑みにしないことが大事ですね。

*東京新聞(中日新聞)、日刊現代、信濃毎日新聞、長周新聞などややローカルなメディアから、今の日本をチェックしましょう。



*人と防災未来センター

*2012年6月、ブログ「続・黒姫高原はんぐろ日記」を開設し、自宅サーバで運用してきたブログ「黒姫高原・はんぐろ日記」の記事等をこちらへ移行しました。 2012年5月以前の記事に載せた写真等はおいおい移行しようと思っていますが、当面ブランクのままの表示となっています。 また従前から開いていたホームページ「黒姫高原・コム」は2015年1月に閉鎖しました。

*過去に所有したドメイン名 kurohimekogen.com, kurohime.com, kurohime.info は順次放棄し、当ブログへの転送設定も停止しております。

*新聞の切り抜き等で拡大表示しても文字の判読が難しい時があります。 そのような場合は、切り抜き画像をパソコンにダウンロードしてから表示されると読みやすくなります。

*お問い合わせメールは、kurohimekogen●gmail●comへ(●は文字を入れ換え、すべて半角で)

*↓時々、先日付の投稿があります。
 下へスクロールして直近の投稿を確認して下さい。

***掲載した主な画像(写真)の上にカーソルを置きクリックすると拡大されて文字が読みやすくなり、さらにクリックするか当該画像右上のXをクリックすると元のサイズに戻ります***


(間もなく参議院議員選挙がはじまります。)
25年デフレが続いている日本で、自公政権は国民の生活を一顧だにせず、消費税に見られるように搾取を続けています。 彼らは与党政治屋や大手企業経営者の栄華が維持されれば良いと思っているのです。 一般市民が現状をよく見定めて、我々の生活の底上げを真面目にしてくれる政治家を選ぶ必要があります。
自民党、公明党に加え、彼らの補完勢力である、維新、国民、参政党などにも騙されてはなりません。 頼りないですが立憲、共産、社民、れいわ新選組の候補者の中から選びましょう。

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2020年12月27日日曜日

今年感銘を受けた書籍3冊

(1/18追記)

3つ目に記した圭太君の本について、毎日小学生新聞に掲載されていたと息子が写真を送ってくれました。

(追記了)

良い本を読むことは大事だと常日頃思っていて、書店や古書店でいいなと思うと買ってしまうのですが、家に帰るとそのことを忘れてしまい、ついついパソコン画面で安易に見られる駄文に取り込まれてしまっていることが多いです。

なかなか良い本が読めない、そんな日常ですが、今年読んだ本の中で、感銘を受けた本が3冊あります。 どれも平易に書かれたものですが、コロナ禍や利権政治の日本にあって、わずかながらも光明が見いだされそうで、そんな若者達が書いた本に出逢いこころなしか安堵しています。

一つは、在日朝鮮(韓国)人のチャンヘンさんが書いた「ぼくは挑戦人」

イジメに遭いながらもパフォーマーへの道を貫き通した本人の生き様が素晴らしいし、行間のあちこちで見られるお母さんやお爺さんお婆さんの言動がなんとも温かい。


ジャグリングパフォーマーちゃんへん


 ちゃんへん.さんオンラインセミナー 「あきらめない心」、でもよく喋りますネ〜
 

2つ目は、ウーマンラッシュアワーの村本大輔さん

我が家にはテレビを置いていないので、一切テレビからの情報はありませんが、時々FacebookやTwitterで、村本さんの発言を見ることがあり、腐りきったアベ政権を批判するその眼が確かだと感じるようになりました。 

いつもは、いいね!をポチっとする位しか反応していませんでしたが、かれの書籍が出版されたと知り、速攻でAmazonに注文。

チャンヘンさんも、村本さんも、心が実に温かい。 そして温かい心を持ち合わせない人に対しては果敢に挑戦するというか、自分の思いをこれでもかと発露しているのです。

 



【vol.17 俺の叫びを聞いてくれ】


3つ目は、「小学生がフランスの台所で教わったこと」

伊那の山奥で暮らす小学生のケイタ君がフランスへホームステイに出かけ、ステイ先の人々と心を通わせながら、日常の調理を学ぶという稀有な体験を記したものでした。 帰国後は、兄弟と一緒に大工仕事に勤しみ、自分たちの小屋を建てている由。



2014年4月25日金曜日

山本周五郎「樅の木は残った」を読む

学業を終えて社会に出た時、「宮仕え」の作法を学ぶために時代小説を読むことが尊ばれていたようでしたが、自分としては小説から処世術のノウハウを学ぶという姿が疎まれ、あまり時代小説を読まないようにして来ました。
でもリタイア人生になってから、やはり高名な小説家の作品には触れていた方がいいだろうと、遅まきながら古書店などで作品が目にとまるとなるべく買うようにしています。

今回、読み終えたのは山本周五郎の「樅の木は残った」で、伊達藩のお家騒動を原田甲斐という人物を通して描いたもので、本書以前では原田甲斐を悪人とされていたようですが、本書では甲斐という人物から、「人間としての生き方」や「組織における身の置き方」など教えてくれているようにも思えました。

巻末で、文芸評論家の尾崎秀樹氏が解説をされているのですが、その中に次の行がありました。

政治と民衆の関係にふれて山本周五郎は、「政治と一般庶民とのつながりは、征服者と被征服者との関係から離れることはできない。 政治は必ず庶民を使役し、庶民から奮い、庶民に服従を強要する。 いかなる時代、いかなる国、いかなる人物によっても、政治はつねにそういったものである」と書いたことがあった。(山彦乙女)

今日の日本の政治や行政を見ていると、悲しいかな、山本周五郎のこの言葉は現に生きているわけで、国家権力の強大化(強権化)に伴い一般市民は増税や酷税、社会保障の劣化などで青息吐息状態なのです。
だからといって将来に光明を見出さないのでは、それこそ生きる張り合いありませんので、打破するための策・考えを読書の中から探して行こうと思うものです。
本を読むということは豊かな思考をもたらすものなのですね。


2012年6月11日月曜日

「原発廃止で世代責任を果たす」を読みました

家内が友人から借りてきた「原発廃止で世代責任を果たす」を読みました。 著者は篠原孝さんという民主党の国会議員です。 しかも出身が信濃町からそう遠くない中野市で、選挙区は長野1区だそうです。


篠原さんは、大学卒業後、農林水産省に入省し、退官後に衆議院議員選挙に出馬し、現在は3期目である由。 本書を読んで、官僚の中にもまともな人がいるのだと、官僚や政治家に対する印象が180度変わりました。 ご本人は、増税については肯定しているものの、TPPや原発については真っ向から反対されており、党首の野田とは見識も姿勢も全く異なる政治家であると思われました。

3.11以降の省庁の動きや政治家の対応などを著者がつぶさに見てきて、何がまずかったのかを整理し、今後の生きる姿勢や政治家としての理念をどのように持つべきか書にまとめられたのでしょう。

チェルノブイリの惨禍25周年に招待されていたのに、菅直人は地震や原発対策が忙しいと出席せず、日本政府としての感謝と解決への姿勢を世界へ訴える絶好のチャンスを失ったそうで、政治力量の無さを嘆いておられます。

また、「功を焦る野田政権、細野原発相の楽観的収束発言」にも厳しく批判しています。

そして、原発対策に対して、世界では見識のある人に任す流れができているのに、日本では相変わらず「ムラ社会が少数意見を排除する」態勢が続き、一向に改まらずないまま、小出さんや広瀬さんのような真っ当な意見が無視されているのです。

本書の行間から気になった箇所を上げてみました。

・「 このことを文科省や官邸は知っているだろうか。 私は疑問に思う。 ソ連は自由が制限され、人権も無視された冷たい共産国家だと言われてきたが、そのソ連のほうが子供の命や人権を重視していたと言わざるを得ない。 日本は何と冷酷非情な国になってしまったのか、嘆息するばかりである」 
・「将来に禍根を残す子供の被曝」 、 「今度は逆に菅政権の原発対応担当者も、十数年後に刑事責任を問われることになるかもしれない。 皮肉なことである。 ところが、このアナロジー(類似性)に気付いている人は少ない。」 
・「仮の町」の建設は東電と政府の責務 、こだわり過ぎる除染と遅れる人の健康検査 
・隠蔽体質は共産主義国家ソ連も民主主義国家日本も共通 
・嘘が逆に国民の不信を拡大 ~ 素人の枝野官房長官や西山英彦審議官の例 
・世界への説明の下手な日本 
・現場に赴くソ連の原発専門家、どこにいつのかわからない日本の原発学者 
・チェルノブイリと違うと言い訳していた原子力ムラ 
・非常事態を想定したが、訓練もしない日本 
・世界は地震地帯を避けて原発立地 
・想定外は想定を無視しただけ 
・平井東北電力副社長の眼力に救われた女川原発 
・日本の恥部の一つ原発労働 
・脱原発は世界の潮流 
・メルケル首相の英断、率直な原発廃止演説 
・恥ずかしい日本の原発輸出


今だもって、原発被災地住民の救済がままならず、福島原発の原子炉の保全対策も不透明な状況で、問題点を多く抱えている大飯原発を再開させようと、野田はしているようですが、本書を読んでくると、どういう思考によって、そのような決断が出来るのか不思議でなりません。 総理大臣の職にある者が、原発事故から何も学んでいないんですね。

官僚の言いなりか、はたまた将来に禍根を残すかもしれないという思慮する能力がないのか、実に政治の頂点に立つ人物であるとは到底思えません。 即刻退陣させ、しかも総選挙で国民の信を問うべきです。

今の民主党政権の執行部にいる面々は、前任の菅直人を含め国民を蔑ろにしているという点で、それこそ戦犯に等しいと言えます。

こちらは篠原さんのブログです。


2011年2月7日月曜日

古本の話

 数日ぶりに朝8時頃から雪が降りだしたものの、温かい気温で降っている傍から溶けていましたが、夕方からは少し冷えて来たので積もるかもしれません。

 さて、以前にも記しましたが、我が家は古本をこよなく愛すというか、まあ納得できるような安い金額で、しかも良い本が入手できることに心地良さを感じており、機会あるごとに購入しています。 先日、ネットで購入した際、先方から購入本に大きな支障があることが判明したので無料で差し上げるというメールをいただいた。 配送されたものを見ると、当然多少の古色はあるものの何の支障もなく訝っていた所、どうも著者のサインを悪戯書きと思ったらしい。 購入した家内にとって著者は師匠のような存在で、逆にサインは有難いものであった。 古本にはこんな形の出会いもあるんですね。

素直な心になれる本 素直な心になれる本
素直な心になれる本 素直な心になれる本

 でも、新本にしろ古本にしろ読み終えてしまうと、蔵書として置いておきたいものはそう多くはありません。 書棚や押入れを占有していることもあって整理したら60冊程処分できることが分かりました。 常住場所へ戻るとその数倍はあると思うのですが、そのまま古本屋へ持ち込んで売却するという方法があります。 でも、二束三文にしかならず、僅かに稼いでも意味がないと、何か良い手がないかとネットで調べてみました。

 そこで見つけたのが、「女の子たちの自立支援のための「本っとありがとうプロジェクト」というサイトで、NPO法人BONDプロジェクトを立ち上げ、若者が生きづらい世の中にあって温かい支援の手を差し伸べようという活動を展開している団体のようでした。

 寄付された書籍を売却し、その資金を活動費にあてていると、早速、電話をし集荷の依頼をしましたが、提供できる本はISBNコードのある本のみで、週刊誌・百科事典・漫画・雑誌、個人出版等は対象となっておりません。 5冊以上あれば宅配便での集荷を行うということなので、是非利用なさってほしいと思いました。 微力ですけど、こういうことも形を変えた社会貢献なのですね。



2010年12月10日金曜日

中勘助 「島守」

 昨夕から、霰のような雪が降って、屋根からは滑り落ちる雪が、人が歩いているような、またネズミが這っているような奇妙な音を立てていました。 そして、朝には辺り一面真っ白な世界になりましたが、たぶん日中の日差しに溶けてしまったでしょう。

 さて、作家 中勘助は、1912年(明治45年、大正元年)に野尻湖畔で「銀の匙」を著したそうですが、この年と前年に野尻湖に浮かぶ琵琶(弁天)島に渡り、祭の際に神官が泊まる家(小屋?)で一時暮らしたそうです。 その独居生活で記した日記から「島守」という短編を発表したようです。 野尻宿の本陣の方(池田さん?)が柴舟を漕いで食糧を運んでいたようです。

 50ページほどの短編ですが、琵琶島から見た飯綱山、黒姫山、妙高山の風景や、対岸の部落で働く人々の姿、炭焼きの煙、また托鉢に出る尼僧を斑尾方向に追うような記述もあって、現在と変わらない土地に古の情景が思い起こされるものでした。 同居するネズミ夫婦を見つけ餅や米をあげる優しさがあり、怪鴟 魑魅 猩猩といった、難しい漢字が時々出てくるものの、格調高く総じて平易でなじみやすい文体のようにも思えました。

 この作品も、信濃町(野尻湖)の大事な宝ですね。

島守


2009年3月27日金曜日

伊那谷の老子


 私は、小学生時代から国語という科目には性が合わず、したがって勉強もせず成績も悪かった。 中学に入ると古文や漢文という科目が増え、これらも苦手な科目で、そのため短歌とか詩歌に対する感性もゼロであった。 書道教室に通っていたが自分の筆記文字は醜いままで人様に見せられるものでなかったので、余計にその傾向が強くなっていたと思う。 従い受験は数学と英語で専攻を選んでおり、残念ながらその性分は息子にも伝わってしまった。 しかし、ワープロやパソコン時代になったおかげで文字入力や文書作成には抵抗を感じなくなった。
 そんな自分だが読書に対しては抵抗がなく、冒険や科学小説などは図書館から借りて読んだり、父親が所蔵していた夏目漱石や森鴎外の旧かなづかいの文学作品なども読んだ。
ただ、社会人になるとサラリーマンの処世術本として時代小説を読む風潮があったが、これには何気に抵抗してしまい、読んだといえば徳川家康程度であった。 あとは仕事に関連したもの、そしてパソコン関連が中心であった。

 従い、文章能力が育たないまま老域に達しようとしているのだが、ブログという自己表現の場を見つけ、半分自己満足の中でつたない文章を書いているのが、ここ数年の自分なのである。
 そんな自分も最近はよく本を読むようになったと思うし、読んだ一冊で終わるのではなく、そこから有機的に新しい本を見つけるのが少し楽しい感じにもなった。 そうは言っても家内の読書量には到底追いつけない。 彼女は日に2~3冊読む時があるし、気に入ると読み終えずにはいられず夜中になって睡眠時間をけずっても読んでいる。  彼女は私より小説を読まず、フィクションはあくまでも虚構の世界だという認識を曲げない。

 さて、先月、中野孝次さんの「閑のある生き方」という本を読んだと記したが、その中に、加島祥造さんの「伊那谷の老子」のことが書かれてあった。 そこで、早速、その「伊那谷の老子」を買い求めたのであった。
 加島さんは、昭和20年代に我々の羨望でもあったフルブライトでアメリカ留学をされたというから相当に優秀な方であったのだろう、翻訳を生業にされていたようだが、現在の職業はウイキペディアによると詩人・タオイスト・墨彩画家らしい。 50歳になってから伊那に山小屋を建て横浜から通うようになったらしい。 その伊那谷の状景の中から、老子の詩句を意訳して現代の日本人に分かりやすく記述されたのが本書(本書は再販・再編集の文庫本)らしい。 ドイツ文学から日本文学に視点を変えた中野孝次さんが、志賀に別荘を持ち飯山や中野へ通うようになったと、同じような軌跡をお二方ともされて来たようだ。

 まず、本書を読んで、中野さんが言っておられた「閑のある生き方」の「閑」の意味がやっと分かった。 一般的には「閑」を「ひま」と読み、「何もすることがない状態」と理解されているであろう。 蘇東坡(そとうば)の句の件から、「江山風月無常主 閑者便是主人」の意味を、筆者は「閑ナル者スナワチコレ主人 - 心の閑(のど)かな人こそこの風光を愛でる主人なのだ」と述べている。
伊那谷の田圃の道を歩きながら、その情景に自分を同化させながら、その思いを感じるそうだ。 そんな姿と黒姫に居る自分とを比べた時、自分の生活はあまりにも事柄に翻弄されたものではなかったかと反省した。 もっとゆっくりと心閑(のど)かに木々の間のそぞろ歩きを楽しまなければいけない。

 もう一つ気に入った言葉がある。 それは「無」あるいは「無為」ということ。 「無」は「無」だけで存在することはなく、必ず「有」との対比の中にあるわけで、「有」がなければ「無」はないのである。 「無」という存在なのである。 「虚」や「死」も同様で、著者はこれを「無の有用性」と説く。 我々は「死」を生物としての存在がなくなることと思っている。 しかし、この「死」も「生」と対峙した中で存在しているわけだ。 これを弁証法論法というのか知らないが、日本人の平均寿命の中にのみ自分があるのではなく、生死を越えた宇宙の中にあると思ったら、生物としての「死」などは怖くないし、金銭に溺れ無駄に快楽を求めるより、むしろ自分をもっと律したくなるのではないかと思う。

 本書の中に書かれた加島訳の老子の詩のうち、自分が気に入ったものをいくつか残そう。


まことに、水とは柔らかで弱いものだ。
まあ、こんなに柔らかで従順なものは
他にはないだろうが、
ひとたび固くて強いものを攻めるとなると
どんな大きな石や崖も崩してしまう。
ほかのどんな力もおよばない力を発揮する。
これで分かるように、
弱いように見えるものが強いものを従え、
柔らかいものが固いものを征服する。

これは誰の目にも明らかなんだが、
このことを世の中で実行する人となると、
まず、ごく少ないね。
たとえば、
川はいつも低いところに流れてゆき、
まわりの丘や町から集まる水を受けて
平然としている。
タオを受け容れた人は
その国の汚れや悲しみや惨めさが
すっかり集まる低い所で悠然としている。
まさにその人こそ、
その国の、いや全世界の、王者じゃないか。
だが世間では、
そういう人をけっして王者とはみない。
本当の言葉とはいつも
世間とは正反対のことを言ってるかのように響く
                       (第七十八章)

目に見えぬ大いなるエナジーを受けいれる、
心を空にして受けいれる。
この虚(から)の心があってこそ
見えてくるものがある。--

万物は生れ、育ち、活動するが、
やがてもとの根に帰ってゆく――
その働きが見えてくるのだ。

その行く先は静けさ、
その静けさこそ自然の本性。
水の行く先は――海
草木の行く先は――大地
いずれも静かなところだ。
自分の本性に戻るとは、だから
静けさに還るということ。
それを知ることが智慧であり
知らずに騒ぐことが悩みや苦しみを生む。
いずれはあの静かさに還るとなれば
心だって広くなるんじゃないか。
                  (第十六章)


無為とは、なにもしないことじゃない
誰も、みんな、
産んだり、養ったり、作ったりするさ、しかし
タオにつながる人は
それを自分のものだと主張しない。
熱心に働いても
その結果を自分のしたことと自慢しない。
頭に立って人々をリードしても、
けっして人を支配しようとしない。
頭であれこれ作為しないこと、
タオに生かされているのだと知ること、
それが無為ということだよ。
なぜって、こういうタオの働きに任せた時こそ、
ライフ・エナジーがいちばんよく流れるんだ。
これがタオという道の不思議な神秘のパワーなんだ。
                       (第十章)

ところで
美しいものと醜いものがあるんじゃない。
美しいと名のつくものは
汚いと名のつくものがあるから
美しいと呼ばれるんだ。
互いに片っ方じゃあ、ありえないんだ。
善だって、そこに悪と呼ばれるものがあるから
はじめて善として存在できるんだ。
悪のあるおかげで善があるってわけだ。
同じように
いま存在しているものも
存在していないものがあるから
存在しうるんだ。



タオの働きをたっぷり持った人というのは、
いわば赤ん坊のようなものなんだ。
全く無邪気な存在だから
毒蛇や虎なんかでも害を加えない。
柔らかくて弱々しいが、その
握ったこぶしは固い。
男と女の結合のことなんか知らないのに
小さなチンポコはしっかりと立つ。
というのも常に生気が満ちているからだ。
一日中大声で泣き叫んでも
声がかれないのは
タオの調和の中にいるからなんだ。
大人になって、この調和を知るのが
本当の知恵さ。
ところが自分の欲望を重ね、
増幅させてゆくと、
エナジーは赤ん坊の柔らかさを失い
堅くて強引な暴力に向う、
そして壮年期からたちまち
老化に至るんだ――
強ければ強いほど
老化は早いんだよ。
                (第五十五章)

2009年3月25日水曜日

フードバンクという挑戦


「フードバンクという挑戦 - 貧困と飽食のあいだで」という本を読んだ。

「フードバンク」とは何? まずは本書の「はじめに」の冒頭を残そう。




 フードバンク。
 日本ではなじみが薄いことばだが、最近、少しずつ見聞きするようになってきた。
 直訳すれば「食料銀行」。 でも、食べ物に利息がついたり、貸したり借りたりするわけではない。 預かるのは、まだ十分食べられるのに「売り物にならないから」と捨てられていた食品。 大量消費社会の日本ではこれが日々、膨大な量に上る。 それを食品会社などから寄付してもらい、食べ物に困っている人たちに無料で届ける。 こうした人たちもまた、日本には大勢いる。
 受け取る側には食費の節約に、企業にとっては廃棄コストの削減になる。 この活動を行っている団体、またはシステムのことをフードバンクと呼ぶ。


 すでにアメリカには40年前からこういった組織があるようで、以前テレビの特集番組で見た記憶があるが、すでに日本でもNPO法人として活動していると、その成り立ちや現状、今後の課題などを記しているのが本書である。

 食品会社やスーパーマーケットが食料品を廃棄するのは、賞味期限が来たという理由よりむしろ、包装が破れたとか汚れたとか、ラベルを張り間違えたとか、誤発注等々の方が多いそうだ。 そして廃棄のために多大な費用がかかっていると、それを廃棄せずに集め、それを必要としている養護施設等々に配布しているのがフードバンクなのである。

 日本には、NPO法人として東京と尼崎市にあるのだが、ともに創めたのはアメリカ人。 東京で始めたチャールズ・E・マクジルトンさんは山谷でダウンボールハウスのホームレスを1年半体験したというから、その信念は大そうなものがあろうと思う。

 組織された、セカンドハーベスト・ジャパン(2HJ)は、本書出版時には1年間で約350トンを60の施設に再配分する組織に成長しているとのこと。

 しかし、日本には、法人にも個人にも寄付や社会還元という思想があまりなく、リーマン・ブラザーズ、モルガン・スタンレー、在日アメリカ商工会議所、ニュースキンジャパン、ギャビン・アンダーソン・アンド・カンパニーといった外資系企業による寄付に頼ってきたそうだが、昨年来の不況による影響は大きいであろう。

 本書を読んで、日本人一人の年間寄付額が町内会割り当ての赤い羽根募金を含めても2200円だという数字に驚いた。 1829(文政12)年秋田には、「感恩講」という民間の窮民救済組織が存在した由、そんな実例がありながら、現代の日本人の懐から出る寄付額がわずか2200円とはあまりにも少なすぎる。

アメリカでは個人による寄付が殆どらしい。 個人法人ともに寄付行為に対する税制控除など日本政府はもっと考慮すべきだと思う。

 また、本活動を進めるにあたって、「してあげる、しなければならない」responsibleではなく、求められるものに応える responseの心がなければ円滑に行かないと書かれていたのには含蓄した。

さて、自分には何ができるであろうか? 考えなければならないと思う。

2008年12月11日木曜日

「魂のレッスン」を読む

 C.W.ニコル氏の著作「魂のレッスン - ぼくとモーガン先生の日々」を読んだ。 ニコルさんの著作は失礼であるが稚拙な部分もあって、これまで多くを読んではおらず、時折(古)書店で見つけると買い求めているのだが、本書を読んで久しぶりに爽やかな思いがした。

 本書の主人公である祐介という少年が登校拒否を繰り返す中で、イギリス赴任の父親と報道関連の仕事をする母親は一計を案じ、少年を祖父母が暮らす郷里での生活を勧める。 その郷里とは当然黒姫だと思うのだが、祐介は、奥さんを亡くして愛犬と暮らすモーガンさんと知り合い、自然との関わりに目覚めて行く。 捕まえた熊を放す話や、川の改修工事のこと、森林伐採や産業廃棄物の違法投棄など、今まさに黒姫で起きていることや過去に起きたことなどがテーマやモチーフにされていると思える。 モーガンさんは当然ニコルさんをモデルにしているのであろうが、登場人物の何人かは実際に黒姫に住むあの人をモデルにしているのではと思えたりして楽しい。

魂のレッスン

 祐介がイギリスへ留学し、さらにケンブリッジ大学へと進むのだが、そんな間にモーガンさんは亡くなる。 モーガンさんは自分の想いを十分に継いでくれた祐介に住んでいた建物や土地を遺すのだが、老境に入りつつあるニコルさんの想いがここに描かれているようにも思えてしまった。 的確な表現が見つからないが、中学から高校にかけて成長していく若者に、生きることの意味や自然との関わりなどを含め、本書は考えるヒントを与えてくれるではないかと思った。 信濃町の中学校など、できれば推薦図書のような形で置かれていたら嬉しい。

 祐介がモーガンさんに英会話を習う場面があったり、海外の人々との交流、さらには英文があちこちで出てきたと思ったら、本書はNHKラジオ新基礎英語のテキストに連載されたものを1冊にまとめられたと巻末に記されていた。



2008年9月27日土曜日

日本人の死に時

日本人の死に時

 今朝起きた時少し涼しいなと思って、黒姫は如何と我が家の温度記録を見たら8度となっていた。 もっと山に入れば5度とか6度になっているのかもしれない。 いよいよコタツが話せない時期になった。
 来月18日には信濃町観光協会の黒姫山登山会が開かれるようだが、その頃にはもっと気温が下がることでしょう。
 そろそろ紅葉の便りがちらほらと伝わって来ると思うのだが、今年はカツラマルカイガラムシの大発生でみずならの木が立ち枯れているらしい。

 さて、久坂部羊著「日本人の死に時」という本を読んだ。 副題が、「そんな長生きしたいですか」。 何とも、ズキリと心臓に突き刺さってくるようなタイトルである。 著者のプロフィールを残そう。

久坂部羊(くさかべ よう)
医師・作家。 1955年、大阪府生まれ。 大阪大学医学部卒業。
2003年、小説「廃用身」でデビュー。 第二作「破裂」が「平成版『白い巨塔』」と絶賛され、十万部を超えるベストセラーとなる。
他の小説作品に「無痛」がある。
小説外の作品として、「大学病院のウラは墓場」がある。

 デイケア施設などで働く医療現場にいて感じられた、老人や家族などの介護者、介護施設で働く人々、医療従事者達の、それぞれの気持ちを推し量り、終末医療と同時に「死」の意味を考えさせるものであった。
 先日産廃記事の中でふれたアルフォンス・デーケンさんが説く「死生観」にも通じる内容であろう。
 人間はやがて死ぬもの。 それは今日かもしれないし10年後かもしれない。 その時は交通事故のように突如としてやって来るかもしれないし、あるいはガンなどのように多少の余裕時間があるかもしれない。 どちらにしても、その時にどういう振る舞いが出来るか問われているわけだ。 そのための事前準備、助走距離が必要だということを教えてくれている。
 そして薬浸けの延命治療が、いかに患者の尊厳を貶めているというこである。 死に際に、”頑張れ”などという月並みな言葉をかけるより、「一緒に暮らせて良かった」などと本人の人生を讃える言葉の方が余程本人のためだという。 死が宣告されても、最後まで残っている五感は視覚や聴覚らしい。 患者のベッドの脇で家族の揉め事や財産分与などの話は決してあってはならない。
 万人に一読を勧めたい。

第一章 長生きは苦しいらしい
老人の「死にたい願望」/初体験としての長生き/リアル長生きシミュレーション/「年寄りをいじめんといてくれ」と叫び/たとえ元気に老いても/バラ色情報の罠

第二章 現代の「不老不死」考
アンチエイジングの流れ/冷凍保存でよみがえる日を待つ/アメリカの不老不死/「アンチエイジング」という市場/底なし沼の「抗加齢ドック」/欲望肯定主義の陥穽 ←注:かんせい、落とし穴)

第三章 長寿の危険に備えていますか
簡単に死ねない時代/長寿の危険は高まっている/虐待の危険/孤独と憤懣の危険/自殺の危険/マスコミに踊らされる危険/オムツはずしの危険

第四章 老後に安住の地はあるのか
グループホーム殺害事件/「認知症介護の切り札」というウソ/触れ込みはパラダイス/あまりに高額な有料老人ホーム/ホームの都合で医師を替えることも/収益のためなら入院も拒否/だから安住の地はない

第五章 敬老精神の復活は可能か
老人が快適に暮らすために必要なもの/敬老精神が衰退した理由/老人の側にも原因が/それでも立派な老人がいる/どういう老人が尊敬されるか/老いていく楽しみを発見!/老人は弱るkらこそ知恵をつける/”老人”より”満足力”

第六章 健康な老人にも必要な安楽死
立派な老人にも悩みが/「あんたなんか死ねない」という意地悪/片手落ちの「PPK(ピンピンコロリ)」/日本の安楽死土壌/「表の安楽死「裏の安楽死」/オランダの安楽死事情/死んだほうがいいという状況/安楽死すべきかせざるべきか

第七章 死をサポートする医療へ
むかしはみんな家で安楽死していた/市を支える医療とは/江戸時代のような看取り/失敗例/早い! いまい! 安い!/モルヒネ不使用の悪循環/求められる”死の側に立つ医師”

第八章 死に時のすすめ
がんを受け入れて死んだ医師/死の達人・富士正晴氏の場合/死を拒否する人の苦しみ/現代のメメント・モリ ←注:死を想え(ラテン語)/病院へ行かないという選択/寿命を大切にするということ/死に時のすすめ

裏表紙から

 何歳まで生きれば”ほどほどに”生きたことになるのか? 長寿をもてはやし抗加齢に踊る一方で、日本人は平均で男6.1年、女7.6年間の寝たきり生活を送る。 多くの人にとって長生きは苦しい。 人の寿命は不公平である。 だが「寿命を大切に生きる」ことは単なる長寿とはちがうはずだ。 どうすれば満足な死を得られるか。 元気なうちにさがしておく「死ぬのにうってつけの時」とは何か。 現役医師による”死に時”のすすめ。

今日の暦から : 無茶食いは身を滅ぼす