お知らせ

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2009年3月27日金曜日

伊那谷の老子


 私は、小学生時代から国語という科目には性が合わず、したがって勉強もせず成績も悪かった。 中学に入ると古文や漢文という科目が増え、これらも苦手な科目で、そのため短歌とか詩歌に対する感性もゼロであった。 書道教室に通っていたが自分の筆記文字は醜いままで人様に見せられるものでなかったので、余計にその傾向が強くなっていたと思う。 従い受験は数学と英語で専攻を選んでおり、残念ながらその性分は息子にも伝わってしまった。 しかし、ワープロやパソコン時代になったおかげで文字入力や文書作成には抵抗を感じなくなった。
 そんな自分だが読書に対しては抵抗がなく、冒険や科学小説などは図書館から借りて読んだり、父親が所蔵していた夏目漱石や森鴎外の旧かなづかいの文学作品なども読んだ。
ただ、社会人になるとサラリーマンの処世術本として時代小説を読む風潮があったが、これには何気に抵抗してしまい、読んだといえば徳川家康程度であった。 あとは仕事に関連したもの、そしてパソコン関連が中心であった。

 従い、文章能力が育たないまま老域に達しようとしているのだが、ブログという自己表現の場を見つけ、半分自己満足の中でつたない文章を書いているのが、ここ数年の自分なのである。
 そんな自分も最近はよく本を読むようになったと思うし、読んだ一冊で終わるのではなく、そこから有機的に新しい本を見つけるのが少し楽しい感じにもなった。 そうは言っても家内の読書量には到底追いつけない。 彼女は日に2~3冊読む時があるし、気に入ると読み終えずにはいられず夜中になって睡眠時間をけずっても読んでいる。  彼女は私より小説を読まず、フィクションはあくまでも虚構の世界だという認識を曲げない。

 さて、先月、中野孝次さんの「閑のある生き方」という本を読んだと記したが、その中に、加島祥造さんの「伊那谷の老子」のことが書かれてあった。 そこで、早速、その「伊那谷の老子」を買い求めたのであった。
 加島さんは、昭和20年代に我々の羨望でもあったフルブライトでアメリカ留学をされたというから相当に優秀な方であったのだろう、翻訳を生業にされていたようだが、現在の職業はウイキペディアによると詩人・タオイスト・墨彩画家らしい。 50歳になってから伊那に山小屋を建て横浜から通うようになったらしい。 その伊那谷の状景の中から、老子の詩句を意訳して現代の日本人に分かりやすく記述されたのが本書(本書は再販・再編集の文庫本)らしい。 ドイツ文学から日本文学に視点を変えた中野孝次さんが、志賀に別荘を持ち飯山や中野へ通うようになったと、同じような軌跡をお二方ともされて来たようだ。

 まず、本書を読んで、中野さんが言っておられた「閑のある生き方」の「閑」の意味がやっと分かった。 一般的には「閑」を「ひま」と読み、「何もすることがない状態」と理解されているであろう。 蘇東坡(そとうば)の句の件から、「江山風月無常主 閑者便是主人」の意味を、筆者は「閑ナル者スナワチコレ主人 - 心の閑(のど)かな人こそこの風光を愛でる主人なのだ」と述べている。
伊那谷の田圃の道を歩きながら、その情景に自分を同化させながら、その思いを感じるそうだ。 そんな姿と黒姫に居る自分とを比べた時、自分の生活はあまりにも事柄に翻弄されたものではなかったかと反省した。 もっとゆっくりと心閑(のど)かに木々の間のそぞろ歩きを楽しまなければいけない。

 もう一つ気に入った言葉がある。 それは「無」あるいは「無為」ということ。 「無」は「無」だけで存在することはなく、必ず「有」との対比の中にあるわけで、「有」がなければ「無」はないのである。 「無」という存在なのである。 「虚」や「死」も同様で、著者はこれを「無の有用性」と説く。 我々は「死」を生物としての存在がなくなることと思っている。 しかし、この「死」も「生」と対峙した中で存在しているわけだ。 これを弁証法論法というのか知らないが、日本人の平均寿命の中にのみ自分があるのではなく、生死を越えた宇宙の中にあると思ったら、生物としての「死」などは怖くないし、金銭に溺れ無駄に快楽を求めるより、むしろ自分をもっと律したくなるのではないかと思う。

 本書の中に書かれた加島訳の老子の詩のうち、自分が気に入ったものをいくつか残そう。


まことに、水とは柔らかで弱いものだ。
まあ、こんなに柔らかで従順なものは
他にはないだろうが、
ひとたび固くて強いものを攻めるとなると
どんな大きな石や崖も崩してしまう。
ほかのどんな力もおよばない力を発揮する。
これで分かるように、
弱いように見えるものが強いものを従え、
柔らかいものが固いものを征服する。

これは誰の目にも明らかなんだが、
このことを世の中で実行する人となると、
まず、ごく少ないね。
たとえば、
川はいつも低いところに流れてゆき、
まわりの丘や町から集まる水を受けて
平然としている。
タオを受け容れた人は
その国の汚れや悲しみや惨めさが
すっかり集まる低い所で悠然としている。
まさにその人こそ、
その国の、いや全世界の、王者じゃないか。
だが世間では、
そういう人をけっして王者とはみない。
本当の言葉とはいつも
世間とは正反対のことを言ってるかのように響く
                       (第七十八章)

目に見えぬ大いなるエナジーを受けいれる、
心を空にして受けいれる。
この虚(から)の心があってこそ
見えてくるものがある。--

万物は生れ、育ち、活動するが、
やがてもとの根に帰ってゆく――
その働きが見えてくるのだ。

その行く先は静けさ、
その静けさこそ自然の本性。
水の行く先は――海
草木の行く先は――大地
いずれも静かなところだ。
自分の本性に戻るとは、だから
静けさに還るということ。
それを知ることが智慧であり
知らずに騒ぐことが悩みや苦しみを生む。
いずれはあの静かさに還るとなれば
心だって広くなるんじゃないか。
                  (第十六章)


無為とは、なにもしないことじゃない
誰も、みんな、
産んだり、養ったり、作ったりするさ、しかし
タオにつながる人は
それを自分のものだと主張しない。
熱心に働いても
その結果を自分のしたことと自慢しない。
頭に立って人々をリードしても、
けっして人を支配しようとしない。
頭であれこれ作為しないこと、
タオに生かされているのだと知ること、
それが無為ということだよ。
なぜって、こういうタオの働きに任せた時こそ、
ライフ・エナジーがいちばんよく流れるんだ。
これがタオという道の不思議な神秘のパワーなんだ。
                       (第十章)

ところで
美しいものと醜いものがあるんじゃない。
美しいと名のつくものは
汚いと名のつくものがあるから
美しいと呼ばれるんだ。
互いに片っ方じゃあ、ありえないんだ。
善だって、そこに悪と呼ばれるものがあるから
はじめて善として存在できるんだ。
悪のあるおかげで善があるってわけだ。
同じように
いま存在しているものも
存在していないものがあるから
存在しうるんだ。



タオの働きをたっぷり持った人というのは、
いわば赤ん坊のようなものなんだ。
全く無邪気な存在だから
毒蛇や虎なんかでも害を加えない。
柔らかくて弱々しいが、その
握ったこぶしは固い。
男と女の結合のことなんか知らないのに
小さなチンポコはしっかりと立つ。
というのも常に生気が満ちているからだ。
一日中大声で泣き叫んでも
声がかれないのは
タオの調和の中にいるからなんだ。
大人になって、この調和を知るのが
本当の知恵さ。
ところが自分の欲望を重ね、
増幅させてゆくと、
エナジーは赤ん坊の柔らかさを失い
堅くて強引な暴力に向う、
そして壮年期からたちまち
老化に至るんだ――
強ければ強いほど
老化は早いんだよ。
                (第五十五章)

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