先日、フォトジャーナリストである広河隆一さんの講演を聞き、今なお残るチェルノブイリの放射能被害の現状をうかがってきた。 世界にはチェルノブイリ以外にも、政治体制や事件事故により、毎日のパンにも事欠き、貧困にあえぎ、生存まで脅かされている人々がたくさんいる。 イラクやパレスチナのように、戦火の中で怯えながら暮す人々も多い。 我々は、対岸の火事のごとく、彼らを傍観しているだけで良いのだろうか? そんな思いを込めて、今月号の表紙を掲載した。
今回、特集されている 「こんなに似ている私たち」は、北朝鮮、韓国、中国、そして日本における街角の風景を、同じアングルで撮影した写真が並んでいるものである。 どれも屈託ないというか、同じような表情をしているものであって、アジア人として、これほどまで似ている者たちが何故いがみ合う必要があるのか、自然に疑問に思えて来る。 国家や政治家と同じ視点でしか、いつも我々は彼らを見ているのではなかろうか。 お互いがもっと近づきあい、理解し合わなければという思いにさせてくれる特集であった。
また、「日本の若者たちが闘った時代」は、1960年代の学生運動を取り上げ、御茶ノ水のカルチェラタンや安田講堂などの闘いの写真を掲げている。 あの時代の若者は、皆何かしなければという切羽詰った熱情を持っていたと思う。 結果、暴力行為に出ざるを得なかったわけだが、逆の目で見ると、今のアメリカとイラクの関係と同じように、国家権力や警察権力による弾圧に等しい行動により、学生が孤立化し、分派化し、外にも内にも暴力行為に至らざるを得なかったのではと思う。
既にある盗聴法に加え、いともまことしやかな理由が付けられ共謀罪が立法されようとしている。 教育基本法、憲法9条、色々な法律の改悪により国民を縛ろうとしているわけだ。 権力にいる者が、力で抑えようとするのはいとも簡単なことである。 しかし、そこから生まれるものは、悲しみや暴力の連鎖しかないことは、先の大戦を思い起こせば容易に分かることである。
ドイツ人聖職者の痛恨の詩(言葉)が思い出される。 うろ覚えで申し訳ないが、
「軍国化は、初めは、自分に関係ないことだと思って気にしなかった。 次に、友人が徴兵されるのを見て、これも自分に関わることでないと、何も言わなかった。 最後に兵隊が教会へ入り込んで来た時には、自分は何もすることが出来なかった。」
そんな意味の詩であった。 どんな小さなことでもいい、まずは、声を出すこと、行動することが大事である。 これはイデオロギーでないと思う。 より豊かで平和な日本を後世に残すためにも、必要なことなのである。
1 件のコメント:
��SN毎日ニュースを見ていたら、
毎日新聞佐藤賢二郎記者による、パキスタン地震の写真報道だと、DaysJapanの表紙に使われたこの写真が載っており、この写真報道が、2006年度の日本新聞協会賞に選ばれたということであった。
元の写真や記事の掲載は禁止ということなので転載できないので、ページに書いてあった本文の一部だけ引用しよう。
がれきの町と化したムザファラバード。遺体が路上に並び、異臭が漂う。救援物資を満載したトラックに向かい、食料を求める少女がいた。その姿はまるで天に祈っているように見えた。とても美しかった。私はカメラを向け、一枚一枚丁寧にシャッターを切った。どんな悲惨な写真より地震の非情さを訴える力を感じた。
被災地では被害の大きさに目を奪われ、悲惨な光景を強調した写真を撮ろうと努める。しかし、少女は「美しさ」が「悲惨さ」を伝えることを教えてくれたのだ。
この映像を見て、自分に出来ることをしたい、 自分にやれることはないかと、自問するのが人間であり、人の道だと思う。
コメントを投稿