製作者の羽田澄子さんは大連から1948年に引き揚げてきたが、先の大戦の間、日本の寒村から開拓団として旧満州へ渡った開拓民のことを知らず、2002年の中国残留孤児国家賠償請求訴訟がはじまって初めて知り、この映画を製作された由。(製作プロは自由工房)
映画は、2007年1月31日であったと思うが、残留孤児の請求を棄却した東京地裁前の不当判決を掲示する場面から始まっていた。
そして、日本に帰国された残留孤児や開拓民の家族などが墓参りや、親兄弟の足跡をたずねるために組んだツアーに参加して、開拓民引き揚げ時の苦難を知る。
戦争末期には男は軍に徴用され、敗戦時に残った開拓民の多くは女性と子供と老人のみで、8月13日頃には日本は負けるというチラシをロシア軍が撒き、その頃から開拓民と地元民とは立場が逆転し、山の中へ逃げたとのこと。 逃亡の足手まといになる子供を置き去りにしたり、母親みずから首を絞めて殺した場面もあったそうだ。 置き去りにした幼児や老人は地元民に殺されたか、狼の餌にでもなったかもしれないと云う。 そうならずに地元民が育ててくれたのが残留孤児問題なのである。
食糧難やチフスで死んだ遺体は倉庫に積み上げてから山へ棄てていくが、カラスが目玉をつっつき地元民が衣服を剥がすので、誰が誰だか次の日には分からなくなる。 そのうち臭いなどで放置できずに薪束に重ね焼いて棄てたという証言もあった。 方正にはそういう骨を集めた日本人公墓があるが、周恩来総理の開拓民も日本軍政の犠牲者であるという判断で建立が可能になった由。
日本へ帰国できるであろうと方正にたどりついても、大連へ向う列車には(少佐以上の)軍人とその家族しか乗れずに、殆どの開拓民は置き去りにされたらしい。 27万人の開拓民に対し、約5万人が軍に徴用され8万人が何らかのかたちで死んでいるということなので、日本に帰国できた開拓民は半数だということになるが、想像を絶するような苦難のうえ帰国されたわけだ。
その中には敗戦の1ヶ月前に県職員の奨励で海を渡った者がいたそうだが、その頃は日本は負けると誰もが分かっていた時期であろう。 昨年7月長野で開かれた信州・戦争展では、青少年義勇軍として渡った若者は2割しか帰らなかったという村もあったそうだ。
と証言されていた残留孤児の方がいたが、沖縄でも、広島・長崎でも、東京大空襲でも日本政府に棄てられた日本人は数多くいたはずだ。 戦後、その過ちに気づいて復権処置が行われれば問題は小さくなるのだが、戦後60年を越えて政治家も官僚も、経済人も司法関係者もあの悲惨な現状を何も学ばないで来ていることが問題なのだ。
それにしても軍隊の権勢を誇示して開拓民を省みず日本に帰国した軍人に、その後多額な軍人恩給が支給されている事実も納得が出来ない。
そういう不条理は今なお社会に蔓延し、いつもでも都合よく棄てられる派遣労働や臨時雇用という効率化だけを考える経営が”良し”とされているように、相変わらず棄民政策が行われているわけだ。
会場の観客はほとんどシルバー世代であったが、風化しつつあるあの戦争を知らないであろう50歳代以下の、特にあの戦争を正当化し、軍備強化を是と思っている人には特に見て欲しい映画であった。
嗚呼 満蒙開拓団(表面)
嗚呼 満蒙開拓団(裏面)
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