お知らせ

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*自戒を込めて-> テレビ(大手メディアを含め)はバカ箱、ウソ箱ニュースやワイドショーからは嘘を植えつけられるし、思考痴呆にもなります。

日本の政治や社会を、自分の眼で見て、自分の頭で考えるようにしたいものです。





「公共放送」と名乗っているNHKや態勢迎合の低俗局(フジサンケイや読売)、大手新聞社(朝日・毎日)等は時の政府になびくような番組や紙面作りをし国民を騙し洗脳しているのです。 「ゴミ箱」同様の「マスゴミ」情報は信用に値するものであるか、自分の頭で判断したいものです。

*ネットニュースにも、偏狭(偏狂)新聞社やテレビ局のものが掲載されています。 やみくもに信用しない、鵜呑みにしないことが大事ですね。

*東京新聞(中日新聞)、日刊現代、信濃毎日新聞、長周新聞などややローカルなメディアから、今の日本をチェックしましょう。



*人と防災未来センター

*2012年6月、ブログ「続・黒姫高原はんぐろ日記」を開設し、自宅サーバで運用してきたブログ「黒姫高原・はんぐろ日記」の記事等をこちらへ移行しました。 2012年5月以前の記事に載せた写真等はおいおい移行しようと思っていますが、当面ブランクのままの表示となっています。 また従前から開いていたホームページ「黒姫高原・コム」は2015年1月に閉鎖しました。

*過去に所有したドメイン名 kurohimekogen.com, kurohime.com, kurohime.info は順次放棄し、当ブログへの転送設定も停止しております。

*新聞の切り抜き等で拡大表示しても文字の判読が難しい時があります。 そのような場合は、切り抜き画像をパソコンにダウンロードしてから表示されると読みやすくなります。

*お問い合わせメールは、kurohimekogen●gmail●comへ(●は文字を入れ換え、すべて半角で)

*↓時々、先日付の投稿があります。
 下へスクロールして直近の投稿を確認して下さい。

***掲載した主な画像(写真)の上にカーソルを置きクリックすると拡大されて文字が読みやすくなり、さらにクリックするか当該画像右上のXをクリックすると元のサイズに戻ります***


(間もなく参議院議員選挙がはじまります。)
25年デフレが続いている日本で、自公政権は国民の生活を一顧だにせず、消費税に見られるように搾取を続けています。 彼らは与党政治屋や大手企業経営者の栄華が維持されれば良いと思っているのです。 一般市民が現状をよく見定めて、我々の生活の底上げを真面目にしてくれる政治家を選ぶ必要があります。
自民党、公明党に加え、彼らの補完勢力である、維新、国民、参政党などにも騙されてはなりません。 頼りないですが立憲、共産、社民、れいわ新選組の候補者の中から選びましょう。

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2016年2月2日火曜日

佐藤初女さんが亡くなった

青森県弘前で、疲れた人達に手を貸す仕事をされていた、「森のイスキア」主宰の佐藤初女さんが昨日亡くなったとのことです。
初女さんのことを知ったのは、「地球交響楽(ガイアシンフォニー)二番」 。




初女さんは、日本人が営々と生き歴史を積み重ねて来れたのは「ご飯と味噌汁」があるからで、「人と人との縁」を大事にしたいと、初女さんのおにぎりは、おにぎりと言わず、「おむすび」だと仰っていたそうです。


2002年、家内はこのイスキアを訪ね、初女さんのお話を聞き、「初女さんのおむすび」を教えていただいてきました。

20年を越えた今でも、私達は外出で食事時間にかかる時は、この「おむすび」を持って出かけることがあります。 「穀ちから」というのでしょう、初女さんのおむすびは、ご飯茶わん一杯で作るので、かなり大きいし、私などは一つでお腹が満たされてしまいます。
小林一茶は、柏原(信濃町)と江戸の間を、一日に10里(40kmほど)という早さで歩いたそうですが、その源はお米であったそうです。

昨今、高齢になられ講演もたびたびで、イスキアでの教室は申し込んでも数年待ちになっていたそうです。

弘前城の桜の再生に、ご主人の又一さんが大変な努力をされたものの50代で先立ち、一人息子さんも早世されたようで、昨今、テレビや誌面などで見られた初女さんの姿は、大変なご苦労や悲哀の陰に生まれたもののようです。






2014年4月18日金曜日

THE BIG ISSUEを読もう(買おう)

今月、消費税が5%から8%へと上がり、さらに来年には10%になるらしいです。
増税に呼応したかのように公務員の給与を上げ、法人税などの減額が予定されているとのこと。 年金支給額は徐々に減り、健康保険や介護保険などの負担額が増えつつあり、結局、国の財源の総枠はあまり変わらず、国民一人ひとりへの課税度合いを高めているのが、この国の税の実態だと言えます。
なぜ、この国の民はこのような 酷税 を黙って認めてしまうのだろう?

それでも私達は工夫をすれば、苦しいながらもやり繰りの都合がつきます。
住まいもなく行政の助けを受けられない人達は路上生活を強いられてしまうのがオチです。 彼らを助けるべく、色々な団体が炊き出しや住まいの斡旋など活動を展開されていますが、それでも追いつかないのが現状でしょう。
国の棄民政策が拡大しているからです。

やむなくホームレスになった人達が仕事を持ち自立するためには住まいを構えなければならず、そのためにも収入が必要だということでしょう。
路上での雑誌販売という仕事の売上の中から生活費を稼ぐという活動が日本でも10年前から始まり、現在は東京や大阪をはじめ全国で雑誌販売が展開されている由。


先日、私は東京・表参道駅を出た所で購入しました。
ホームレスの人であっても、好き好んで厳しい生活をしているわけでなく、この雑誌を販売しているというのは、元の生活に戻りたい、更生したいという気持ちが強い方なのでしょう。

街角で、「ビッグイッシュー日本版」を販売している姿(販売員)を見たら、是非買ってあげてほしいし、記された記事の内容に触れてほしいと思います。

この記事に特集されているミュージシャンの坂本龍一さんは、

もっと怒って、怖がって、怖気づくべき。
このままでは、世界はあと20年、
持たないんじゃないですか?

2009年5月3日日曜日

ぞうのババール

 今朝、ロック歌手の忌野清志郎さんが亡くなられたと知った。 彼の音楽についての理解は全くないのだが、これまでの彼の行動や音楽活動を漏れ聞いて、彼の性格に感ずるものが多々あった。 特に民の心を無視した体制的な動きには真っ向から反発し、その意思を明確にされて来たことは実にすばらしいし、エンターテイメントの世界でも稀有な人格であったと思う。 戦争犯罪人と思しき老害が長生きしいつまでも政治世界で力を鼓舞している反面、彼のような純な人物が早世したことを知ると、実に世の中は不条理だと思わざるを得ない。

 さて、手元に「ぞうのババール」という音楽物語のCDがある。 これは黒姫高原に住んでおられた詩人・矢川澄子さんから昔頂いたもので、この絵本の語りを忌野清志郎さんがされているのであった。 録音が20年前なので声が随分と若い。 このCDを矢川さんから頂いた時、忌野清志郎さんは「大変純な人だ」と言われていたことを家内は今でも覚えている。 矢川さん、忌野さん、黒姫に居て共に大事な人の訃報を聞くと心にぽっかりと穴が開いたような気持ちになってしまう。

ぞうのババール
ぞうのババールから
ぞうのババールから


2008年8月14日木曜日

作家中野孝次夫妻の墓に参った

 信濃毎日新聞の7月25日号を見ていたら、文化欄に上田の無言館館長窪島誠一郎氏が「父子墓を買う」と題したエッセイを書かれているのに気づき、その中で我々が敬愛する作家中野孝次さんのことが書かれているのを知った。
 中野孝次さんのお墓が須坂の浄運寺にあることを思い出し、前々から参詣に行こうと思っていたので、今日は出かけることにした。
 上信越道・須坂インターの近くにあるものと詳しく調べずに行ったら場所が分からない。 やっと派出所を見つけてお巡りさんに聞いてたどり着くことが出来た。
 先ず、その行き方だが、

 須坂インターを降りて来た時、インター前の交差点を右折し須坂市街へと向かう。 1つか2つ目だったと思うが、"井上町"という信号を右折すると間もなくT字路に来る。 共にあまり広くない道路だが、ここを左折し50mか100mほどか、左側に"やきとり"、その隣が公民館が見えて来るが、これを右折。 その先の右にある商店を右折しても可。 手前を右折した時にはブドウ畑の先右に神社があり、行き止まりを左折し右折すると、大きな石碑があり、直進すると浄運寺に到着する。 商店を右折すると直進で到着する。 左右にはブドウ畑の棚が続き、車の行き違いがしにくいほど狭い。

 山門の左に駐車場が、さらに先には新造されたような二段になった墓所が見える。 車を一番奥まで入れて、上段の墓所へ行くと、中野さんのお墓はすぐに見つかった。 都会では考えられないほどの広さだが、墓碑などは他所よりは小さく、目立たないように作られていた。 そして、奥様の秀さんも今年の1月に80歳で他界されていたことを知った。 墓所の手前両脇には愛犬二匹の碑も置いてあった。 中野さんにとっては我々は見ず知らずの他人ではあるが、著作から受けた感銘を感謝し線香を手向けて来た。
 浄運寺の本堂はもう少し上に位置していたが、ここは鎌倉時代の豪族であろうか井上氏が支配していたそうで、寺はその城跡でもあるそうだ。 例年8月に、本堂で無明塾が開かれ、中野さんも講師をされていたようだ。 今年は窪島さんや加賀乙彦さんがお話をされるようで、再びこの地を訪ねることになりそうだ。
 なお、中野孝次さんの著書については、4月11日、4月19日、6月4日に記して来た。







須坂・浄運寺にて須坂・浄運寺にて須坂・浄運寺にて須坂・浄運寺にて



2008年4月10日木曜日

小川国夫さんのこと

今日の暦から : 睡眠こそ最高の健康法


 作家小川国夫さんが亡くなられたとニュースで知った。
 今まで小川さんの作品をきちんと読んだことはなく、人柄についても知らなかったのだが、次に置いた新聞のコラムを見て何気に気になって、その切抜きを保存していたのであった。
 このコラムでは、信条(信仰)の基礎となっている聖書のことを述べているのだが、自分もこれまで断片的には読んでいるし、記憶に残している段落もあるのだが、きちんとその意味は理解していない。 最近、人の一生は、聖書から始まって聖書で終わるのではないかと感ずるようになり、ゆっくりと聖書を読まなければと思うようになってきた。
不可解ゆえ魅力に富む(日本経済新聞2006年2月23日より)

 先月、ボストンからの客人を良寛の里へ案内したのだが、良寛さんが生と死を隣り合わせて住んでいた五合庵を見て、彼の中に清貧の心を垣間見た思いがした。 既に亡くなられた独文学者の中野孝次さんが、良寛さんについてたくさん書いておられるのだが、たぶん著された「清貧の思想」にも相通ずると思う。 小川さんについても、殆どの現代人が忘れている、この清貧の心という気脈を一にした方であろうと気になっていたのであった。 そんな今日この頃の訃報であった。
 と言いながらも、読まなければいけない書物が増えているのに、実際の読書が追いついていかず、横に積まれる本の山が徐々に高くなってしまっているが現状であるのが情けない。


 小川さんは、息子さんが通われていた学校の校歌を作詞されていたというので調べたら、こちらの学校のこちらのページに掲載されていた。



2007年4月1日日曜日

四月の光の中で

今日の暦から : 良い習慣きょうスタート


薄紅(うすべに)の季節(とき)


 一瞬であったが、今朝畑に霜が下りていた。 東京ではもう桜が満開で、場所によっては散り始めているという。


 新しい年度の最初の日とあって、友人が私家版CDに入れた曲の中から、「四月の光の中で」という歌の触りを聞いていただこう。 1Mbの容量があるので、細い回線の場合音が途切れるかもしれない。




2007年3月22日木曜日

狩野誠さんの著作から再び

今日の暦から : 美肌づくりは熟睡から

 狩野さんの著作(と思われる)タイトルを一覧にしてみた。
1.開拓農民
��.荒野に生きる
��.荒野に灯をともせ
��.黒姫山麓に生きる
��.雑草の詩(うた)
��.クスリになる野菜と野草と
��.薬になる野菜と野草
��.心の健康 ほほえみ読本 I集 II集

��.は、武者小路実篤に巻頭言を依頼したものだとか、2.とともに絶版の模様。
��.は、今回古本で入手できた。
��.は、サインズ・オブ・ザ・タイムズ1976年2月号だと、黒姫和漢薬のサイトで読むことができる。
��.も、今回古本店から購入
��.以降は、道の駅しなの・天望館でも購入が可能と思われる。
 昭和二十年、私は南九州の基地で特攻訓練中に無条件降伏を聞いたが、まだ敗戦を信ずることができず東京に復員してきた。 二十一才である。 祖国の命運と自己の運命について煩悶懊悩し、疲れては深川の家の焼跡に立ち、壊れた水道の蛇口から噴き出す水で手を濡らしながら敗れてなお生きるものの哀れを思いつづけた。 そして所沢や土浦飛行場跡に入植の地をもとめた。
 しかし、飛行場接収の内示に半年にして再び街頭に出、沖仲人足や清掃人夫になって働いた。
食糧事情はひどく悪化してきた。 食糧メーデー、二一ゼネストの革命気運の昂まる中に、二十二年の秋、連合国極東委員会はマ総司令部に対し次のような伝達をおこなった。
 「二十二年十一月一日より二十三年十月三十一日に至る米穀年度における日本の食糧輸入は最少限にとどむべきである。 日本に必要以上の食糧購入をゆるすことは、日本人に対して他の連合国、あるいは解放諸国の国民以上の優先的待遇を与えることになるので絶対にみとめることはできない」
 占領軍は狭い国土に増大する人口を無理に押しこめ、食糧を切りつめて敗戦の惨さを執拗になめさせようとしているようだ。 飢餓と疲労で野良犬のようになった私はしかしこれからの生きかたを真剣に考えてみた。
 まず自分の良心に恥ずかしくない生きかたをしたい。 少くとも隣人や同胞をごまかして自分だけ生きのびてゆこうことはしたくない。 それには煩雑な都会生活よりも素朴な農村生活に自分の生きかたを求めてゆきたいと考えた。 ちょうどそんな時、黒姫山麓で入植者を募っていることを知り、直ちに現地へ赴いた。 父母や弟妹が信州に疎開していたこともあったが、何よりも黒姫山という山の名の神秘さと信州高原という情緒に惹かれたのである。

と、「荒野に灯をともせ」で黒姫へ訪ねた動機を記している。

 さて、狩野誠さんは生粋の日本帝国軍人であり、このように同胞に対する想いは計り知れないものがあると思われる。 その所以の一つが延命堂の存在であろう。
 そのお気持ちは分かる。 しかし、先の大戦では満州へ渡った開拓農民ばかりでなく民間人の多くが空襲による被害など犠牲をはらい、また、戦地での人的物的な徴用、殺戮など様々に翻弄された人々が存在したわけで、そういう事実と同胞への想いとをどのように折り合いをつけられたのだろうか、ということが非常に気になってしかたない。
 雑草に対する強い想いを持っておられたのだから、辛苦を舐めた同胞以外の人々への心も持っておられたとは思う。 社会が変わりつつある中で、悲惨な戦争という負の資産を明らかにしにくくなって来たというのもうなづける。
 狩野さん自身どのように思われていたのか、著作の中ででも心の内を吐露するような部分があったら、是非見てみたい。
ほほえみ読本


クスリになる野菜と野草と 表紙見開きの狩野さん直筆(草心)、但し通常販売本にはない
薬になる野菜と野草
表紙見開きの狩野さん直筆(草心)、但し通常販売本にはない

2007年3月19日月曜日

荒野に灯をともせ 縮刷版

今日の暦から : 足を鍛えるのは足速で歩く

 先日のまとまった雪降りを春の悪戯かなと思っていた所、ここ数日の天候は2月と3月が入れ替わったようで、屋根の色が白くなっている家々が今日も見られる。
 さて、狩野誠さんが書かれた「荒野に灯をともせ - 黒姫山麓の二十五年」を読んだ。 日記に書かれていたものを随筆に書き直しされたものであろう、一つ一つは短い文面だが、戦後間もない時期から開拓という厳しい生活をされてきた、その生き様の一端をうかがい知ることができる著作であった。
 狩野さんは、先の大戦の特攻隊員として鹿児島県知覧で敗戦を迎え、高倉健主演の映画「ホタル」で見られたような仲間たちへの遣る瀬無い思いを、心の奥底にずっと持って来られたであろう。 そんな思いが、草や土に目を向けさせる要因になったのではないかと思った。
 北海道など他の開拓地でも辛酸を舐めた農民は多かったであろうし、黒姫開拓にも沢山の引揚者が入植したが、ある人は挫折したり亡くなったりと、現代の生活を得た人々は少ないようにも聞く。
そういう黒姫の開拓にかかわった人々や、黒姫開拓の真の姿を知ることは、信濃町に住み、関わる人々にとって大変大事なことではないかと思う。
○目次から一部を残す
荒野に立つ
掘立小屋を建てる
ランプの灯
土を斬る
熊の皮算用
おみくじ
カラス野郎
一粒一菩薩
蛙のてんぷら
山菜の宝庫
おらが蕎麦
口の中でボウフラが
 ・
 ・
 ・
灰燼に帰す
七難八苦
 
 この目次を見るだけで、その厳しさが分かるもの。 本書は、昭和47年2月15日発行となっているが、狩野さんの工場の火災は、前年の3月12日に発生し、
 「ごくろうさん・・・・・がんばろう」
 とかける言葉もいつしか涙声になっている。 あの不眠不休で自らの手で建てた思い出の桁の一本、梁の一本、屋根の一枚が燃えている。 なが年にわたってあつめた開拓の記録や薬草の資料が書籍と一緒に炎となってゆく。

と記しいる。 本書を縮刷版とし、300頁強の本版の出版を予定されていたらしいが、ひょっとしてこの火災で原稿等を灰に帰したものと思われる。

 もし出版されていれば、35年経つ現在でも、古本という形であっても手にすることができたわけだ。
そういう意味でも大変残念に思うし、町内の家々に残っているかもしれない開拓資料を探してでも、あの開拓の歴史を後世に残してほしいと思う。 黒姫開拓の歴史は信濃町の歴史でもあるからだ。
荒野に灯をともせ(表紙)荒野に灯をともせ(裏紙)
「荒野に灯をともせ」から
「荒野に灯をともせ」から


2007年3月18日日曜日

合掌

今日の暦から : ビタミンCは芋類に豊富

 合掌!  16日仁の倉付近にて撮る。
延命堂
草の学校
正面に斑尾山


2007年3月7日水曜日

鈴木牧之と葛飾北斎

今日の暦から : ビタミン剤より自然食品

 「ひねくれ一茶」には俳人以外の人物も登場するのだが、その中で良く知られる人は、鈴木牧之と葛飾北斎であろう。 一応、ウイキペディアからその生年と没年を確認した。
 小林一茶  1763年(宝暦13年) - 1828年(文政10年)
 鈴木牧之  1770年(明和7年)  - 1842年(天保13年)
 葛飾北斎  1760年(宝暦10年) - 1849年(嘉永2年)
 なお、鈴木牧之が北越雪譜の監修を依頼した曲亭(滝沢)馬琴は、1767年(明和4年)-1848年(嘉永元年)。 この頃の人は意外と長生きしている。

 一茶は、牧之と雪国生まれ同士であると気脈を通じる。 また、北斎は豪放磊落な人物と描かれ、一茶の句に「色彩(いろ)がない」と批判する。 実際の話か創作かは分からないが、小説のそこかしこにエピソードを散りばめるのも作家の能力なのであろう。
1.「ひねくれ一茶」 鈴木牧之の件から その1
2.「ひねくれ一茶」 鈴木牧之の件から その2
3.「ひねくれ一茶」 鈴木牧之の件から その3
4.「ひねくれ一茶」 葛飾北斎の件から その1
5.「ひねくれ一茶」 葛飾北斎の件から その2
6.「ひねくれ一茶」 葛飾北斎の件から その3



2007年2月21日水曜日

花の世に無官の狐鳴きにけり

今日の暦から : 夜更かしは明日への疲労

ひねくれ一茶(田辺聖子著)

一茶(藤沢周平著)

 田辺聖子さんの「ひねくれ一茶」をやっと読み終えた。 タイトルの「花の世に無官の狐鳴きにけり」は一茶の辞世の句なのであろうか作品の最後に書かれてあった句である。 全548頁は読み応えがある。

 昔、読んだ時の記憶だと、"ひねくれ"というタイトルと遺産をめぐる骨肉の争いから、一茶の一部の側面だけを突出させた作品だとずっと思っていた。 しかし、今回読み直して随分と違う人間像を見た。 藤沢周平の作品もそうなのだが、他人より少し背伸びをしたいとか、明日の食料を心配しなくてすむ生活をしたいといった、誰でももっている小市民的な希いを一茶も求めていたということがよく分かった。

 二つの作品を比べてみると、「ひねくれ」の方は、江戸へ奉公に出される場面や西国行脚などの記述はない(思い出部分はあるが)。 あとの大まかな流れは両作品とも似ているものの、「ひねくれ」は、女性の眼から見たきめ細かな表現があり、著者の創造なのか、北斎や北越雪譜の鈴木牧之、初恋の女性も登場する。(訂正:一時、北斎を西鶴と誤記、西鶴は100年程早い)
 話し言葉は、当時のままではないと思うが、現在信濃町の年配者から聞くことができる方言が多用されていて、それが分かるから余計楽しくなる。 語尾に「ずら」を付けるのは、三河者が柏原に棲みついたということを意識しているのであろう。

 一茶が作った2万句のうちの幾つだか分からないが、頻繁に一茶句が登場する。 作句の背景や意味が分かればもっと楽しめたと思うが、読み手の方にそれだけの能力がないから仕方ない。
 巻末に、信濃毎日新聞社刊「一茶全集」を底本にしたと書かれてあるだけで、あとがきはないが、以前町の古老から、一茶記念館の館長をされていた清水哲さんらがお手伝いをされたようなことを聞いたことがあった。

 藤沢周平、田辺聖子と読んできて、机にはあと一冊、井上ひさしの本がある。 こちらは戯曲ということで、殆ど作り物だろうから、取り立てて一茶像を描く必要はない。

2007年2月20日火曜日

曇りのない心で生きる

今日の暦から : 湿度と喚起に気配り暖房

みんないい人ね

 手元に、「みんないい人ね - 曇りのない心で生きる」と題された迫登茂子さんという方が書かれた書籍がある。 出版元は、風雲舎。

 長い教員生活の後、著者が過去生が見えるようになったと、そこから出発した"生きる喜び"を交遊録と共に記している(と思う)本である。 "と思う"と書いたのは、シャーマニズムというのか、一種超能力のようなものの存在はあると漠然と思うものの、何か"怖い"というか、近寄り難い印象があるからである。 気功とか、中国拳法とか、忍者の所作などにも通ずると思うのだが、人間には先天的に超能力が備わっていると思うし、五感以上の感覚はあると信じている。 しかし、長い歴史の中で尾?骨と同様に、そういう器官は使われず殆どは退化したのではないかと思っているものの、何かのかげんで、再び感覚を覚醒される方が居られるわけだ。

 そうは思うのだが、この手の本は真剣に読まなければいけないと思うせいか、なかなか開けないでいる。 さて、今日、記そうと思ったのは、この本の中に、「えんめい茶」でよく知られる黒姫和漢薬の狩野さんとの交友が書かれていたからである。 わずか数頁だが、戦後の黒姫の一場面を現しているのではと、ここに載せておくことにしたわけだ。

「みんないい人ね」から その1
「みんないい人ね」から その2
「みんないい人ね」から その3
「みんないい人ね」から その4


 本書のあとがきは、狩野さんの奥様が書かれているが、戦後山桑に住まわれ、学生時代にはお母様が提灯を持って柏原駅まで迎えに来られていたと記され、大変な時代を生きてこられたことが垣間見える。 なお、ご主人の誠さんには茶房で一度お会いし、夕方長野のご自宅に帰られる姿を何度かお見受けしたこともあるが、人伝ではあるものの最近身罷れたと伺った。 戦中戦後の大変な時期を生き抜いて来られた方の一時代が終ったということであろう。
 なお、黒姫和漢薬研究所のサイトから、「黒姫山麓に生きる」をクリックすると、えんめい茶アーカイブスの頁を開くことができ、戦後ご苦労されてきた、えんめい茶の歴史の一端を知ることができる。
「みんないい人ね」から  あとがきの一部

 このエントリーを見て、興味を持たれた方が居られたら、風雲舎のサイトからでも本書は注文できるので、ぜひお読みいただきたい。

2007年2月19日月曜日

緩褌(ゆるふん)良寛

今日の暦から : 喫煙は本人も周囲も毒

 二玄社と聞けば、若い人であればカーグラフィックやNAVIという自動車情報の専門誌を出版している会社と気づくであろう。
 ところが、この出版社は、書道や東洋美術でも名の知られた会社で、所謂二足の草鞋を履いた仕事をしている会社なのだ。 時折、この二玄社から出版ダイジェストという新聞が送付されてくる。 二玄社のような専門書を取り扱う出版社が出版梓会という社団法人をつくり、書籍情報を定期的に発信しているらしいのだ。
 以前、家内が書道関連の書籍を購入したことで送ってくるのであろう、二玄社を特集するような記事の新聞が年に数回送られて来ており、今回のテーマは「良寛」であった。

 良寛は、黒姫から1~2時間ほどの運転で行ける、新潟県の出雲崎に生まれ、実家は神社であったが出家し、曹洞宗の僧侶として和歌や俳句、漢詩三昧の一生を過ごしたとのこと。 現在の出雲崎には良寛記念館があり、1997年に我々も訪ねたことがある。

 前置きが随分と長いのだが、出版ダイジェストに原子朗さんという方が「緩褌良寛」というタイトルで寄稿されているを見つけたのである。
 原子朗さんにお会いしたというか、初めてお話しをうかがったのは、2004年8月21日の一茶記念館であった。 この日、一茶記念館の年次講演会として「一茶句のおもしろさとおそろしさ」と題して話されたのであった。 博識であると同時に、矍鑠として凛とした芯の強さを感じたことを覚えている。 講演当日の日記から一部を記そう。
 司会者が、今日の講演者である原子朗さんを紹介。
 修辞学の研究者で、宮沢賢治イーハートーブ館館長であると同時に、30年前から黒姫高原の山桑に別荘を持ち、童話館で講演されるなど信濃町とのかかわりをもって来られている由。
 一茶記念館のこの講演会は年間行事の1つで今年3番目の講演で、今回は、「一茶句のおもしろさとおそろしさ」と題したものである。

 講演の内容は、当時の時代背景から一茶の生き様と一茶句を詳訳したもので、
 ・幕府直轄の天領であったこと、
 ・親鸞に詣でるために三河から北国街道を歩き、柏原に居を構えた人々のこと、
 ・農業文化が栄えたこと、
 ・平均余命30数才の時代に65歳まで生きた一茶を支えたのは蕎麦であったこと、
 ・小林家は小作農ではなかったこと、
 ・一茶の家庭環境のこと、等々
 お話が多岐にわたり、その中で一茶句をいくつも解説されていた。

 その他にも、
 ・松木姓のこと、
 ・鍛冶職人の中村与平さんのこと、
 ・らくや食堂、
 ・しなの書房を秘書箱代わり(気付)に使われたこと、
 ・ノーマンさんのこと(原さんは、戦後間もなくノーマンさんの仕事の手伝いをされた由)、
今日の信濃町の情報とからめて話され、非常に面白く興味を持って聴くことができた。
 最後に、一茶を支えた蕎麦の原産地はイラン・イラクであり、蕎麦がきを焼いたようなパンをあちらでは食すとのこと。

 原さんは、先の大戦で兄弟を亡くされ、その分自分は長生きして憲法9条を守るのだという、イラク派兵などとんでもないと真摯に発言されるなど、齢80とは思えない若さにも敬服した。

 講演が終って、原さんが退場されてから、家内は追いかけ、会津弥一と信濃町との関わりを質問した。 原さんが想定していた以上の質問であったのか、信濃町に住んでいるのか、大学はどこだとか、故郷はどこだか、逆に矢継ぎ早に質問責めに会ってしまったとのこと。
 講演中、黒板ではなく白紙に筆で書かれていたが、本人は会津弥一風だというが.....

 本題の、「緩褌良寛」の発想だが、なかなか楽しいというか含蓄のある考え方だと思う。 良寛の大愚に通ずるものがある。 一茶にも、「春立つや愚の上に又愚にかへる」という句がある。 このように他者の思考の中に含蓄のある言葉を見つけるほど楽しいことはない。 奥深いものは、映像や音の世界ではなく、文字の世界でしか見つけられないものであろうと、つくづく思うようになって来た。
1.緩褌良寛 その1
2.緩褌良寛 その2