二玄社と聞けば、若い人であればカーグラフィックやNAVIという自動車情報の専門誌を出版している会社と気づくであろう。
ところが、この出版社は、書道や東洋美術でも名の知られた会社で、所謂二足の草鞋を履いた仕事をしている会社なのだ。 時折、この二玄社から出版ダイジェストという新聞が送付されてくる。 二玄社のような専門書を取り扱う出版社が出版梓会という社団法人をつくり、書籍情報を定期的に発信しているらしいのだ。
以前、家内が書道関連の書籍を購入したことで送ってくるのであろう、二玄社を特集するような記事の新聞が年に数回送られて来ており、今回のテーマは「良寛」であった。
良寛は、黒姫から1~2時間ほどの運転で行ける、新潟県の出雲崎に生まれ、実家は神社であったが出家し、曹洞宗の僧侶として和歌や俳句、漢詩三昧の一生を過ごしたとのこと。 現在の出雲崎には良寛記念館があり、1997年に我々も訪ねたことがある。
前置きが随分と長いのだが、出版ダイジェストに原子朗さんという方が「緩褌良寛」というタイトルで寄稿されているを見つけたのである。
原子朗さんにお会いしたというか、初めてお話しをうかがったのは、2004年8月21日の一茶記念館であった。 この日、一茶記念館の年次講演会として「一茶句のおもしろさとおそろしさ」と題して話されたのであった。 博識であると同時に、矍鑠として凛とした芯の強さを感じたことを覚えている。 講演当日の日記から一部を記そう。
司会者が、今日の講演者である原子朗さんを紹介。
修辞学の研究者で、宮沢賢治イーハートーブ館館長であると同時に、30年前から黒姫高原の山桑に別荘を持ち、童話館で講演されるなど信濃町とのかかわりをもって来られている由。
一茶記念館のこの講演会は年間行事の1つで今年3番目の講演で、今回は、「一茶句のおもしろさとおそろしさ」と題したものである。
講演の内容は、当時の時代背景から一茶の生き様と一茶句を詳訳したもので、
・幕府直轄の天領であったこと、
・親鸞に詣でるために三河から北国街道を歩き、柏原に居を構えた人々のこと、
・農業文化が栄えたこと、
・平均余命30数才の時代に65歳まで生きた一茶を支えたのは蕎麦であったこと、
・小林家は小作農ではなかったこと、
・一茶の家庭環境のこと、等々
お話が多岐にわたり、その中で一茶句をいくつも解説されていた。
その他にも、
・松木姓のこと、
・鍛冶職人の中村与平さんのこと、
・らくや食堂、
・しなの書房を秘書箱代わり(気付)に使われたこと、
・ノーマンさんのこと(原さんは、戦後間もなくノーマンさんの仕事の手伝いをされた由)、
今日の信濃町の情報とからめて話され、非常に面白く興味を持って聴くことができた。
最後に、一茶を支えた蕎麦の原産地はイラン・イラクであり、蕎麦がきを焼いたようなパンをあちらでは食すとのこと。
原さんは、先の大戦で兄弟を亡くされ、その分自分は長生きして憲法9条を守るのだという、イラク派兵などとんでもないと真摯に発言されるなど、齢80とは思えない若さにも敬服した。
講演が終って、原さんが退場されてから、家内は追いかけ、会津弥一と信濃町との関わりを質問した。 原さんが想定していた以上の質問であったのか、信濃町に住んでいるのか、大学はどこだとか、故郷はどこだか、逆に矢継ぎ早に質問責めに会ってしまったとのこと。
講演中、黒板ではなく白紙に筆で書かれていたが、本人は会津弥一風だというが.....
本題の、「緩褌良寛」の発想だが、なかなか楽しいというか含蓄のある考え方だと思う。 良寛の大愚に通ずるものがある。 一茶にも、「春立つや愚の上に又愚にかへる」という句がある。 このように他者の思考の中に含蓄のある言葉を見つけるほど楽しいことはない。 奥深いものは、映像や音の世界ではなく、文字の世界でしか見つけられないものであろうと、つくづく思うようになって来た。
1.緩褌良寛 その1
2.緩褌良寛 その2
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