時々訪ねる、「戦争・差別・貧困のない「強い社会」をつくろう!」と副題をつけたブログ「喜八ログ」の12日の記事で、本田哲郎さんというカトリック司祭の講演会があると紹介されていて、本日出かけて来ました。
「喜八ログ」には、本田哲郎さんに関するツイートという10月12日の記事もあります。
これまでの本田さんの略歴と釜ヶ崎で労働者と共にあって学んでこられたということにも興味があって、会場となっていた横浜の紅葉坂教会へうかがいました。
演目は、「あなたはイエスをどこにみていますか?」でしたが、25年にわたる釜ヶ崎での生活の中で、粗野で誰にも注目されない見捨てられた人からポロッとほとばしるような光がしばしば見えることがあると最初に話されました。 そして、教会は聖書を唯一の拠り所として戒律を決め、こうあらなければならないと言ってますが、実際に聖書をよく読むと障害者などに対する差別表現が随所に見られるとのこと。
つい最近まで教会法にも差別と見られるような記述があったらしい。 国や会社などの組織と同様に、教会も安定化を望み、保守化が進むと逆に差別を生むようになる。 聖書には二種類の価値観があり、これを全て正しいとすると大変な間違いを起こすことになる。
ホームレスの人達に食事を世話する施設があるが、食事をもらうために列にならばなければならない、彼らの辛さというものを知らなければいけない。
温和で従順で優秀な人ではなく、虐げられた人の中にこそイエスを見る。 ヨゼフやイエスは大工であったとされているが、実際には石工という家の基礎を作る職業であったらしく、最下層の人であった。
よく教会は、障害や病気、怪我、若死などを神のみ旨とすることがあるが、それは逆差別を生じさせる。 「かみなり」 「かみかぜ」 「かみかくし」など、災害や災難などを神の意思としてしまうことがあるが、それは都合のいい理由づけである。
「なんじの敵を愛せよ」というのも教会組織が出来てから、為政者が都合の良いように言っているもので、敵を愛することなんてできやしない。 でも、仲良くはできないが大切に思うことは可能である。
人権に、福音的価値観を持つことが大事だ。
というような1時間半ばかりの話でしたが、「福音的生き方」という理解は大変難しいものの、感覚的にはうなづけるものが多かったです。 会場には、ホームレスなどへの援助をされている方や仏僧の方もいて、本田さんの話に感じるものがあったと仰っていました。
教会の中には、曽野綾子のような横柄な者がいる反面、三浦綾子さんのような清貧の中で人を思う人もいる。 司祭や牧師にしても当初は壮大な思いがあっても、世の濁流にもまれた結果、酒や享楽に溺れる人がいよう。 アシジのフラシスコのような、清貧な生き方をされ、そこに生きる意味を見出している本田さんに大変興味を持ちました。
「喜八ログ」から飛んだ「OCHLOS(オクロス)」も大変興味のあるブログです。 原発は放射能被害のみならず差別を産んでいるという視点も大事だと思います。
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