狩野さんの著作(と思われる)タイトルを一覧にしてみた。
1.開拓農民
��.荒野に生きる
��.荒野に灯をともせ
��.黒姫山麓に生きる
��.雑草の詩(うた)
��.クスリになる野菜と野草と
��.薬になる野菜と野草
��.心の健康 ほほえみ読本 I集 II集
��.は、武者小路実篤に巻頭言を依頼したものだとか、2.とともに絶版の模様。
��.は、今回古本で入手できた。
��.は、サインズ・オブ・ザ・タイムズ1976年2月号だと、黒姫和漢薬のサイトで読むことができる。
��.も、今回古本店から購入
��.以降は、道の駅しなの・天望館でも購入が可能と思われる。
昭和二十年、私は南九州の基地で特攻訓練中に無条件降伏を聞いたが、まだ敗戦を信ずることができず東京に復員してきた。 二十一才である。 祖国の命運と自己の運命について煩悶懊悩し、疲れては深川の家の焼跡に立ち、壊れた水道の蛇口から噴き出す水で手を濡らしながら敗れてなお生きるものの哀れを思いつづけた。 そして所沢や土浦飛行場跡に入植の地をもとめた。
しかし、飛行場接収の内示に半年にして再び街頭に出、沖仲人足や清掃人夫になって働いた。
食糧事情はひどく悪化してきた。 食糧メーデー、二一ゼネストの革命気運の昂まる中に、二十二年の秋、連合国極東委員会はマ総司令部に対し次のような伝達をおこなった。
「二十二年十一月一日より二十三年十月三十一日に至る米穀年度における日本の食糧輸入は最少限にとどむべきである。 日本に必要以上の食糧購入をゆるすことは、日本人に対して他の連合国、あるいは解放諸国の国民以上の優先的待遇を与えることになるので絶対にみとめることはできない」
占領軍は狭い国土に増大する人口を無理に押しこめ、食糧を切りつめて敗戦の惨さを執拗になめさせようとしているようだ。 飢餓と疲労で野良犬のようになった私はしかしこれからの生きかたを真剣に考えてみた。
まず自分の良心に恥ずかしくない生きかたをしたい。 少くとも隣人や同胞をごまかして自分だけ生きのびてゆこうことはしたくない。 それには煩雑な都会生活よりも素朴な農村生活に自分の生きかたを求めてゆきたいと考えた。 ちょうどそんな時、黒姫山麓で入植者を募っていることを知り、直ちに現地へ赴いた。 父母や弟妹が信州に疎開していたこともあったが、何よりも黒姫山という山の名の神秘さと信州高原という情緒に惹かれたのである。
と、「荒野に灯をともせ」で黒姫へ訪ねた動機を記している。
さて、狩野誠さんは生粋の日本帝国軍人であり、このように同胞に対する想いは計り知れないものがあると思われる。 その所以の一つが延命堂の存在であろう。
そのお気持ちは分かる。 しかし、先の大戦では満州へ渡った開拓農民ばかりでなく民間人の多くが空襲による被害など犠牲をはらい、また、戦地での人的物的な徴用、殺戮など様々に翻弄された人々が存在したわけで、そういう事実と同胞への想いとをどのように折り合いをつけられたのだろうか、ということが非常に気になってしかたない。
雑草に対する強い想いを持っておられたのだから、辛苦を舐めた同胞以外の人々への心も持っておられたとは思う。 社会が変わりつつある中で、悲惨な戦争という負の資産を明らかにしにくくなって来たというのもうなづける。
狩野さん自身どのように思われていたのか、著作の中ででも心の内を吐露するような部分があったら、是非見てみたい。
2 件のコメント:
こんにちわ。
狩野先生は、私が幼い頃通っていた空手道場(桃太郎学校)の先生です。
保育園のころから、自宅の古間から柏原小学校まで歩いて通い、先生に教えていただいたことを思い浮かべます。
レンセイクン(字、忘れました(^^;))と呼ばれる教えを稽古の前後で大声で読んでいました。
一.一生懸命になること
一.礼儀を正しくすること
一.弱音をはかないこと
一.元気を出すこと
一.反省の勇気を持つこと
大人になった今でも通じるものがあります。
ポマード(かな?)の匂いが印象的で、いつも礼儀が正しいく、決してスパルタではなかったのですが、芯がビシッとしたかたで、今でも尊敬の念を抱いております。
かわさん、コメント! ありがとうございます。
私は狩野さんを詳しく存じ上げておりませんが、著作を見ていると、真の武士というか、日本人の鑑のような方ではなかったかと思っています。
ここには書けませんが、家内のここ十数年の生活が、延命茶を軸に遠巻きにした人の縁でつながって来たと云っています。
草の学校、桃太郎学校の卒業生の方々は沢山居られるのでしょう。 口幅ったいですが、狩野さんの生き様を何か形に残して、是非信濃町の宝にしてほしいと願っている次第です。
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