今日はほぼ一日晴れて、気温は32~33度ほどであったようです。 こんな温度の日差しでも、肌を差すような感じがします。 明け方、ブルーベリーの収穫をしていると、6時半頃からじょじょに日が出だし、満身に受ける時分になると、汗びっしょりとなり、時折クラクラするような時もあります。 気温と日差しの強さとは比例しないようで、この時期に外仕事をするのはちょっと危ないです。
そんな暑い一日でしたが、吹いてくる風は爽やかで、家の中で昼寝でもしていると大変心地いいです。 夜は相変わらず25度前後の気温で、窓を開けて寝ると冷えを感じるほどです。
さて、信濃町役場が毎月発行している広報誌「しなの」の6月号には、「164年前の惨禍、善光寺地震」という記事が掲載されています。 1847年(弘化4年)5月8日に発生した、M7.4の善光寺地震の詳細について記述しており、その後段に次の段落があります。
地震の後、被災地の各藩、代官所では、すぐに「お救い小屋」を設置して炊き出しを行い、幕府から拝借金を用立てて被災者に救援金を渡し、水田が流された農民には、稲や籾米を手当てするなど、復興を支援しました。 また、物価や手間賃の賃上げを禁じ、風説の流布を禁じ、盗賊を防ぐため巡検を行うなど、治安の維持に努めました。
信濃町周辺も右表の様に被害は甚大でした。 そんな中、柏原宿本陣の中村六左衛門は、地元の復興に尽くすのみならず、中野代官所からの依頼で、米2,700俵を越後で用立てています。 この米は、中野代官所・善光寺領内の米価高騰を抑え、米不足解消に大きく貢献しました。 六左衛門は、焼失した善光寺仁王門の再建にも尽力しています。
去る3月の東北における大地震に際し、種々の援助や義援金、ボランティア活動など、個人や企業にかかわらず大変な支援がありました。 しかし、国の真の意味での救援活動は3ヶ月を越えても一向に動く気配が見られず、やっと復興省なる組織が出来たと思ったら、大臣の暴言で辞任する有様。 復興計画についても、利権がらみの儲け話中心の施策のようで、被災者を救援するという視点が全くないと言えます。
昨日、総理大臣の菅直人が脱原発方針だと言明したら、それは個人の立場で言ったものだということらしい。 一国の首相の言葉が一晩で翻されるという国は日本しかないであろう。 実に頼りない政権である。
生活規模や行政規模は全く異なりますが、善光寺地震の時の立場のある人の動きと、今の政府とを比べると、実に情けないというか、住民を思いやる心が全くないことが分かります。 そういう政治家や政権を選んでしまった我々国民にも責任があるということですが、少なくともアメリカの言いなりで、自分の思想信条のない菅政権の存在を忘れず、来るべき選挙には臨みたいと思います。
なお、先の善光寺地震の記事詳細については、信濃町役場の広報誌「しなの」6月号を参照下さい。
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