昨日少し触れたが、分水や出雲崎の良寛さんを訪ねた後、数ある良寛本の中から、中野孝次さんの本を読んで、良寛さんの足跡を再び辿った。 そして、良寛さんに対する中野さんの想いに感ずるものがあり、彼の著作をもっと読んでみたいと図書館から一度に借りて来たのが、上記の写真である。
今、「老いのこみち」を読んでいるのだが、ヘッセが書いたという次の件がいい。
年をとっていることは、若いことと同じように美しく神聖な使命である。 死ぬことを学ぶことと、死ぬことは、あらゆるほかのはたらきと同様に価値の高いはたらきである。 -- それがすべての生命の意義と神聖さに対する畏敬をもって遂行されることが前提であるけれど。 老人であることや、白髪になることや、死に近づくことをただ厭い、恐れる老人は、その人生段階の品位ある代表者ではない。
藤沢秀行碁聖が、囲碁の才能が伸びた時期は12~15歳頃であったという話から、今の教育制度は子供達を一定の枠に収め、成長を妨げていると嘆く。 実にもっともなことだと思うし、他にも含蓄に富んだ随筆があるのだが、とうの役人や政治家がこういう随筆を読んで学習することがない所に、この国の先が案じられてしまう。
「清貧の思想」は、ずっと書棚の前面に鎮座していたと記憶しているだが、この所見かけない。 本箱の奥にでも入れたのであろう。 探して読み直してみたい。
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