昨日は穏やかな快晴の天気だというので、久しぶりにロング・ウォークに出かけました。
と言っても何処も車が行き交う道ばかりで自然溢れるような場所は少なく、地理に慣れていることもあって、鎌倉・逗子・葉山と巡って来ました。 歩きはじめは鎌倉市内を流れる滑川(なめりがわ)の源流で、切通しの彼方に日に浴びた紅葉が輝いていました。
久しぶりに鎌倉市内を歩いて、土地柄でしょうか魚屋さんが多いのに気がつきました。 時々良い魚を求めて買いに行く店はこちらですが、他にも4軒の魚屋さんを見つけました。 市内のごく一部しか歩いていませんので、全市を俯瞰したらかなりの数の魚屋さんあることでしょう。
そして、ほとんど参詣することのない鶴岡八幡宮ですが、樹齢1000年とも言われていた大石段横の大銀杏が倒れたと聞き、その場を検証すべく見てきました。 昨年3月10日に強風で倒れたそうです。 子供の頃から見慣れていたあの銀杏の木がないと、やっぱりあの石段が寂しいというか絵にならないように思われました。
若宮大路にある鎌倉野菜(と言っても藤沢辺りから来ているかもしれませんが)の直売所を通り過ぎた所に、長くテレビのグルメ番組に出ていた迫文代さんのカレーの店(Copepe)があると最近聞いていたのですが、路地の横にそれらしくお客さんが待っているような様子の店が見えました。
ウォークは材木座海岸に入り、九品寺などいくつか寺院を通りすぎて光明寺にたどり着きました。 入り口から入って総門、山門、大殿(本堂)と続くのですが、ここの山門は鎌倉の寺院の中で一番大きい山門だそうです。
ここは私の母親の実家の菩提寺で、私の古いアルバムには半世紀前に従兄弟達が集まって墓参した写真があり、そのことを思い出して参詣しようと墓地の中に入ってみました。 所狭しと墓石が続く中で見つけることができず諦めて墓苑を出ようとした所に、大きなお墓を見つけました。 墓石の横には、昭和20年の敗戦の際、天皇陛下に申し訳ないと手榴弾で自害した母親の弟を弔う墓石も建っていました。(即死できず、弟は数日苦しんでいたと生前の母から聞いていました) そのような日本兵や市民がたくさんいたことでしょうが、昭和天皇は自らの延命のために日本をアメリカに売り渡したわけで、その延長線上にアメリカ政府の言いなりになっている今の日本(政府)があるわけです。 そういう意味では一度も会ったこともない叔父さんの死は全くの無駄な死であったと言わざるをえず、今回の東北大地震の被災者や原発事故による放射能漏れに晒されている人々など、いつの世も国民は国の政策に翻弄されその多くが棄てられているという現実を感じるのです。
墓誌を見ていたら、数年前に私より若い従兄弟が亡くなっていたと知りました。 父母やその兄弟がいなくなると従兄弟と会うことも、近況に触れるこもありませんが、他界されてしまったことはやはり寂しいものです。
小坪漁港から天上には大金持ちが住むという披露山公園下を抜けて逗子市内へと入り、海岸線の道へと出ました。 葉山マリーナがある鐙摺(あぶずり)漁港前には日本料理の日影茶屋が昔と変わらず営業していました。 20数年前にここで法事を行なったことがありますが、代替わりしてしまうと、このような所で法事をするような親戚付き合いもなくなり、また大枚払ってまでして和食を味わいたいという気にもなりません。
葉山・一色をぬけて横須賀へ入りました。 帰りはバスを利用して最寄りの鉄道駅へ向かうことも可能でしたが、一応到達地点とした駅に着きたいと体に鞭し、暗くなった5時近くに到着しました。 最後は足にマメができて、ややびっこを引いてのウォークになってしまいました。 ちょうど4万歩。 距離にして28kmほどでしょう。 これだけの長距離ウォークは北国街道を古間宿から二本木宿まで歩いた時以来でしたが、歳を重ねる中、まずはウォークで萎えそうな筋力を保持していこうと、特に虫などが少ない冬場を中心に歩こうと思っています。