東日本大震災が起きて1年が経ちました。
あの時も黒姫は今日のように晴れ渡った日であったと記憶していますが、今日は午後から雲って夕方にはちらほら雪が舞いはじめています。
去年の3月11日14時46分、黒姫では震度4ほどであったでしょうか、この20年間の体験では1~2番目に強い揺れで、ネット情報では詳細が分からず、我が家にはテレビがないのでラジオをつけたのですが、東北方面で大変な状況にあるような話であるも詳しい状況が掴めず、ご近所へうかがいテレビ映像を見させていただきました。
ヘリコプターから伝えるテレビ映像は実に壮絶なもので、津波から避難している人影の動きのもどかしさにいらいら感さえありました。 長野へ出かけた家内とはなかなか連絡がつかず、やっと動いた信越線で帰って来たのは夜7時過ぎでした。 東京に住む息子は仕事場の高層階の窓から見る隣のビルの揺れが窓枠を越えるほどに大きく揺れ気持ち悪かったそうで、業後に自宅へ帰るにしても歩道が人で溢れ、電車で10分ほどの所を1時間以上もかけて帰宅したそうです。
そして飛び込んできたのは福島原発事故。 海外赴任中の息子の留守家族や東京に住む幼子に放射能の影響があるのではと気がかりなことが多くありました。 その後津波被害の悲惨さ、原発事故への遅々たる対策などに憤りさえ感じるもので、反原発や脱原発デモへの参加が促されました。
そういった一年を振り返って、公私共にこの災害を総活をしなければと思うのですが、今日の政府主催の追悼式で野田首相が3つの誓いを述べ、「復興が歴史的使命」だとも言っていました。 言葉どおりに聞けば、「その通りだ」とうなずけるのでしょうが、復興の緒に立ったばかりの疲弊化した日本経済にあって、やみくもに消費税増税を強行しようとしている上、米軍の被災地援助に対し相応の経費を請求されている(た)のに、ニューヨークタイムズ紙に「アメリカの援助を忘れない」という自慰的な広告を掲載したとのことです。 米軍にとってはあくまでも「作戦」であることを野田首相を含め日本政府は分かっていないように思えます。
この一年、「頑張ろう」とか、「絆」とか、「風評被害に負けるな」とか、色々言われてきましたが、未曾有の死者や被災者を生み出していながら、その原因究明や責任の所在が問われないまま、あいまいにして大事なものを覆い隠そうとしているように思えます 日本は地震国であり、しばしば東海地震などの危険性が言われて来ましたし、チリ地震による津波被害を東北地方は受けています。 地震など自然災害に対する備えに対し、政府も自治体も、また地殻変動などを把握しているべき気象庁や地震予知を研究している学者などなど、誰かがどこかで危険を知らしめ注意を喚起していれば、こんな大きな災害にならなかったはずです。 私は今回の津波災害は9割、原発は10割、人災によるものと思っています。
原発事故についても然りで、原子力安全委員会の班目委員長などは国の原発政策を精査し、危険が生じないように注力するのが役目であったはずです。 「疲れた」からこの3月末で委員長を辞するとのこと。 何も安全対策を施さずに逃避するのは、実にいい加減な所作であり責任放棄にも繋がり、「六ヶ所ラプソディー」で感じたと同様の、デタラメな御仁をトップに据えたもので、一事が万事こういうデタラメな人物を据えてきたことが原発事故の要因にもなっていると言えます。
今日の「天木直人のブログ」では、
細野原発担当大臣が
「問題があまりに多く、大きいので国で対処出来ない。だから東電にまかせるのだ」
と述べたと記されています。 原発政策は国が率先して行ってきたものであり、電力喪失という管理上の責任は東電にあるにしても、政策全般についての責任は国にある筈です。 大臣職にあるべき者が、一私企業にその責をなすりつけるのは本末転倒であり、自己矛盾を起こしているとも言えます。
「ただちに影響があるレベルではない」とたびたび言った枝野前官房長官は、将来甲状腺ガンや小児性ガンなどで苦しむことになる子供たちを想定することは全く無く、弁護士特有の詭弁を弄していたのでした。 また福島県立医科大学の山下俊一は放射線は飲んでも大丈夫だと学者とは思えないようなとんでもない発言をしているのです。 子供たちや若い人々がこれからの人生の中で苦しむであろう姿を予測できない思考には怒りすら感じるもので、「万死に値する」と言っても良いでしょう。
先日、東京工業大学の上田紀行先生の講演を聞きましたが、いまだ「天災と人災の区分けがされていない」所に問題があると仰っていました。 そして幼子が育つ20年後には「この日本を安全で豊かな社会」にしたいとも言われていました。 同じように、「反原発」や「脱原発」を訴える人々は、子供たちの将来に「安全で健康な社会」を残したいと思って必死に活動をしているわけで、そういう動きに対し、原発をやめれば日本経済が疲弊化するとか、感傷的になりすぎているとか言う人々が多くいます。
でも双方の多くの意見を聞いていると、脱原発を求めている人々の意思には相当の理由や意義を感じますが、原発はなくせない、このまま維持したいという人々の意見には筋がないと感じられます。 原発を廃止すれば、「日本は経済で他国に負ける」とか「核技術の蓄積をしないと核武装するであろう北朝鮮に対抗できない」とか、具体的な論旨のない非常にあいまいな意見が多いのです。 加え日本政府の外交能力の無さも問題です。
そして原発を擁護する人や組織は、結局は「欲得」が由縁なのです。 自分の役職や地位を守り経済的な基盤を失わないがために、原発マネーを否定することができないのです。
浜岡原発のようにいくら津波対策をしたとしても、そもそも地面奥深くで何が起きているのか人間には何も分かっていないでしょう。 過去の地殻変動を理解したとしても将来の変動を予測するのは非常に困難です。 柏崎原発のように活断層の存在を知りながら建設するという過ちもおかしてしまうわけです。 もっと自然の驚異に対し謙虚というか謙遜というか、もっと冷静で沈着な感覚を持ちたいと思います。
今日のテレビ各局はどこも一年目の特集番組を流していたようですが、「悲しい災害がこんなにもあったのだ」と、傍観者的映像を流していただけで、所謂「高みの見物」で、たぶん被災者の本当の痛みを伝えていたとは思えません。 イギリスなどでは福島近県のみならず、長野・山梨・静岡などで産出されるものの輸入を禁じているとのことです。 それだけ海外組織は日本の実状を把握しているのでしょう。 政府や企業寄りの報道しかしない、場合によってはウソの報道をするような日本のテレビや新聞を信用しては駄目で、さまざまなネット情報の中から自分達を守ってくれるであろう、少しでも正確な情報を探し出す姿勢を持ちたいものです。
今日は、全国のみならず世界中でフクシマを思う脱原発集会が行われたようです。 制御しきれない原子力を使い続けるのは、地球という生命体に対しての冒涜であり大きな犯罪行為なのです。
大雪に対処すべくこの2ヶ月の間、雪国で暮らして来ましたが、実質ともに春に近づき、上田先生のように、安全な社会を孫子に残すためにも自分に何が出来るか考え行動して行きたいと、思いを新たにした被災1年の日でした。
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