中野孝次さんの「『閑(かん)』のある生き方」を読み終えた。 本書の出版は2003年7月で、その翌年2月には、中野さんは体調の異変を感じ、診察を受けるため病院の門をくぐる。 食道ガンという診断に平静を保ちつつ苦悩する様子は、かつて読んだ「ガン日記」に記されているが、ちょうど1年後の2004年7月に他界されている。 そして現在は、奥様ともども信濃町から車で30分程の須坂市にある浄雲寺の一角で永眠されている。
本書は、40代半ばになった甥っ子さんに、老年の準備を今から始めよと説く所から始まっているが、趣旨の理解は前書きを読むのが一番手っ取り早いから、その一部を記すことにした。
社会に出て働くかぎり現代人は大抵の人が多忙を強いられている。 朝の通勤地獄から始まって、勤め先に行けば同僚との打合せ、仕事、会議、他社との連絡と交渉などで一日が過ぎ、退社時間が来てもまっすぐ帰れる人はまずいない。 職種によっては夜中近くまで拘束される人もいる。
(中断)
多忙の中にあってはそういう心の世界に入れない。 一人きりになって、他に気を紛らわせる何もなく、「閑」という状態に身を置くときだけ、人は全体としての自分を取り戻す。 それが生きるということだ。 わたしが老年を人生の一番いい時だというのは、そこではすべての時間がまるまる自分のもので、時間を世間のために奮われないですむからだ。
つまり人は「閑」の中でのみ真に自分の人生を生きることができる。
(中断)
セネカは「閑」の中でだけ人はその本来の自分を取り戻し、よく生きることができる、といろんな所で言っている。
(中断)
だからこの本ではもっぱら、早く閑のある生活を得よ、社会で働いているときから少しずつ軸足を社会から私生活へ、外から内へ移してゆけ、とすすめることになった。
(後断)
これまでの著作と同様に、老子、セネカ、吉田兼好、良寛、エピクテートス、ヘッセ、キケロなどの著作や詩歌から引用し、ストイック的生き方が何故必要なのかを説いている。 老年になればなるほど「清貧」に徹することが、「今を生きる」ことにつながるのだと、つまる所、人は生物としての生死を越えた普遍的な存在になれると、次の文面からも分かって来る。 それは、中野さん独自の「悟りの境地」とも言えるのだろうが、そのことを「老子は『道』といい、セネカは『自然』といい、趙州や大梅は『仏』といい、エピクテートスは『神』といい、名付け方は人それぞれちがうが、永遠なるいのちを指すことでは同じだ。」と述べている。
含蓄のある引用が多いが、その中から二点残してみよう。 まずは加島祥造訳の老子の詩句から。
ぼくらはひとに
褒められたり貶されたりして、
びくびくしながら生きている。
自分がひとにどう見られるか
いつも気にしている。 しかしね
そういう自分というのは
本当の自分じゃあなくて、
社会にかかわっている自分なんだ。
もうひとつ
天と地のむこうの道(タオ)に
つながる自分がある。
そういう自分にもどれば
人に嘲(あざ)けられたって褒められたって
ふふんという顔ができる。
社会から蹴落されるのは
怖いかもしれないけれど、
タオから見れば
社会だって変わってゆく。 だから
大きなタオの働きを少しでも感じれば
くよくよしなくなるんだ。
たかの知れた自分だけれど
社会だって、
たかの知れた社会なんだ。
もっと大きなタオのライフに
つながっている自分こそ大切なんだ。
そのほうの自分を愛するようになれば
世間からちょっとパンチをくらったって
平気になるのさ。 だって
タオに愛されてる自分は
世間を気にしてびくつく自分とは
別の自分なんだからね。
社会の駒のひとつである自分は
いつもあちこち突き飛ばされて
前のめりに走っているけれど、
そんな自分とは
違う自分がいると知ってほしいんだ。
そして、同じく加島祥造訳の「伊那谷の老子」から
君はどっちだね--
地位が上がるためには、そして
収入や財産をふやすためには
自分の体をこわしたってかまわないかね?
自分の生きる楽しさを犠牲にして
名誉や地位を追う者は、実は
いちばん大切な「何か」を取りそこねているんだ
マネーをひたすらためこむ者は、実は
大損をしているのさ。
いま自分の持つもので満足する人は
デカイ顔でいられるんだ。
まあこんなところで充分だと思う人は
ゆったりと世間を眺めて
いま持つもので結構エンジョイできるのさ。
すると、そういう人は
思いのほか長生きするのだ、あくせく
地位やマネーを追う人よりも --
0 件のコメント:
コメントを投稿