お知らせ

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*自戒を込めて-> テレビ(大手メディアを含め)はバカ箱ウソ箱ニュースやワイドショーからは嘘を植えつけられるし、思考痴呆にもなります。

日本の政治や社会を、自分の眼で見て、自分の頭で考えるようにしたいものです。





「公共放送」と名乗っているNHKや態勢迎合の低俗局(フジサンケイや読売)、大手新聞社(朝日・毎日)等は時の政府になびくような番組や紙面作りをし国民を騙し洗脳しているのです。 「ゴミ箱」同様の「マスゴミ」情報は信用に値するものであるか、自分の頭で判断したいものです。

*ネットニュースにも、偏狭(偏狂)新聞社やテレビ局のものが掲載されています。 やみくもに信用しない、鵜呑みにしないことが大事ですね。

*東京新聞(中日新聞)、日刊現代、信濃毎日新聞、長周新聞などややローカルなメディアから、今の日本をチェックしましょう。



人と防災未来センター

*2012年6月、ブログ「続・黒姫高原はんぐろ日記」を開設し、自宅サーバで運用してきたブログ「黒姫高原・はんぐろ日記」の記事等をこちらへ移行しました。 2012年5月以前の記事に載せた写真等はおいおい移行しようと思っていますが、当面ブランクのままの表示となっています。 また従前から開いていたホームページ「黒姫高原・コム」は2015年1月に閉鎖しました。

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(間もなく参議院議員選挙がはじまります。)
25年デフレが続いている日本で、自公政権は国民の生活を一顧だにせず、消費税に見られるように搾取を続けています。 彼らは与党政治屋や大手企業経営者の栄華が維持されれば良いと思っているのです。 一般市民が現状をよく見定めて、我々の生活の底上げを真面目にしてくれる政治家を選ぶ必要があります。
自民党、公明党に加え、彼らの補完勢力である、維新、国民、参政党などにも騙されてはなりません。 頼りないですが立憲、共産、社民、れいわ新選組の候補者の中から選びましょう。

2007年2月7日水曜日

藤沢周平の「一茶」を読む

今日の暦から : 肌が教える健康の度合

 藤沢周平が書いた「一茶」(初出 別冊文藝春秋139号~142号、単行本昭和53年6月刊)を読んだ。 書棚の奥に残っていたものであり、昔読んだような覚えはあるものの、内容の確証がなかったため読み直したわけだ。
 継母の存在ゆえに15歳で江戸に奉公に出る場面から小説は始まるわけだが、柏原や古間、二之倉、赤渋などと、今も呼ばれている地区名が出てくると、"あの辺だな"とか、"あの方向に視線を向けていたのだ"などと想像できて嬉しくなる。 諏訪神社の前のなだらかな坂という件(くだり)では、現在は結構急峻ではないかと、子供達が遊ぶ鳥居川も護岸がなく川幅はもっと広かったであろう、などと240数年前の情景が今とさほど変わっていないことに安堵してしまう。

 藤沢氏は、一茶研究家である小林計一郎氏のご教示を得て本書を書き上げたと記しているが、どこまで史実で、どこが作者の創作なのかは分からない。 ただ、全体を通して見ると、あの時代に普通の人があくせく日銭を稼いで生き続けていたように、一茶も俳諧を生業に日々の糧を得ていたのであろう。 生きる姿は市井の人々と何ら変わらないと思えた。
 あとがきで、
 われわれは一茶の中に、難解さや典雅な気取りとは無縁の、つまりわれわれの本音や私生活にごく近似した生活や感情を示した、一人の俳人の姿を発見するのである。
 こういう一茶を、まず普通のひとと言っていいであろう。 俳聖などども言われたが、それは一茶の衣裳として、似つかわしいものではなかったという気がする。
 しかし、そのただのひとのままに、一茶はやはり非凡な人間だったと思わざるを得ない。

と、作者は一茶は凡人でありながら作句では非凡であったと記している。

 解説欄には、藤田昌司氏の次のくだりがある。
 藤沢氏は最も好きな句として
   木がらしや地びたに暮るゝ辻諷(つじうた)ひ
   霜がれや鍋の墨かく小傾城(こけいせい)
 の二句を挙げる。 「地びたに暮るゝ・・・・」と、辻諷いと共に街行く人びとを見上げるローアングルの視線に共鳴し、「霜がれや・・・・・」の句は、芭蕉の「ひとつ家に遊女もねたり萩の月」や、其角(きかく)の「小傾城行てなぶらん年の昏(くれ)」などと比べれば、人生の底辺に生きる人間へのよりそい方がわかるであろう、というのだ。
 そして、このような一茶への共鳴のしかたこそ、藤沢文学のもつ肌のぬくもりであり、心にぬくもりを失った現代人にとっての魅力でもあるといえるだろう。


 さて、書棚には、一茶の財産争いという、ある面を突出させ描いた(であろう)、田辺聖子の「ひねくれ一茶」がある。 これも既読のはずだが、筋の記憶がない。 藤沢氏のいい心持の一茶像を損ねる趣もあろうが、人間は種々の面を持つものだから、やはり読み直した方がいいだろう。

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