藤沢周平が書いた「一茶」(初出 別冊文藝春秋139号~142号、単行本昭和53年6月刊)を読んだ。 書棚の奥に残っていたものであり、昔読んだような覚えはあるものの、内容の確証がなかったため読み直したわけだ。
継母の存在ゆえに15歳で江戸に奉公に出る場面から小説は始まるわけだが、柏原や古間、二之倉、赤渋などと、今も呼ばれている地区名が出てくると、"あの辺だな"とか、"あの方向に視線を向けていたのだ"などと想像できて嬉しくなる。 諏訪神社の前のなだらかな坂という件(くだり)では、現在は結構急峻ではないかと、子供達が遊ぶ鳥居川も護岸がなく川幅はもっと広かったであろう、などと240数年前の情景が今とさほど変わっていないことに安堵してしまう。
藤沢氏は、一茶研究家である小林計一郎氏のご教示を得て本書を書き上げたと記しているが、どこまで史実で、どこが作者の創作なのかは分からない。 ただ、全体を通して見ると、あの時代に普通の人があくせく日銭を稼いで生き続けていたように、一茶も俳諧を生業に日々の糧を得ていたのであろう。 生きる姿は市井の人々と何ら変わらないと思えた。
あとがきで、
われわれは一茶の中に、難解さや典雅な気取りとは無縁の、つまりわれわれの本音や私生活にごく近似した生活や感情を示した、一人の俳人の姿を発見するのである。
こういう一茶を、まず普通のひとと言っていいであろう。 俳聖などども言われたが、それは一茶の衣裳として、似つかわしいものではなかったという気がする。
しかし、そのただのひとのままに、一茶はやはり非凡な人間だったと思わざるを得ない。
と、作者は一茶は凡人でありながら作句では非凡であったと記している。
解説欄には、藤田昌司氏の次のくだりがある。
藤沢氏は最も好きな句として
木がらしや地びたに暮るゝ辻諷(つじうた)ひ
霜がれや鍋の墨かく小傾城(こけいせい)
の二句を挙げる。 「地びたに暮るゝ・・・・」と、辻諷いと共に街行く人びとを見上げるローアングルの視線に共鳴し、「霜がれや・・・・・」の句は、芭蕉の「ひとつ家に遊女もねたり萩の月」や、其角(きかく)の「小傾城行てなぶらん年の昏(くれ)」などと比べれば、人生の底辺に生きる人間へのよりそい方がわかるであろう、というのだ。
そして、このような一茶への共鳴のしかたこそ、藤沢文学のもつ肌のぬくもりであり、心にぬくもりを失った現代人にとっての魅力でもあるといえるだろう。
さて、書棚には、一茶の財産争いという、ある面を突出させ描いた(であろう)、田辺聖子の「ひねくれ一茶」がある。 これも既読のはずだが、筋の記憶がない。 藤沢氏のいい心持の一茶像を損ねる趣もあろうが、人間は種々の面を持つものだから、やはり読み直した方がいいだろう。
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