昨日は所用があり久しぶりに東京へ出た。 場所は港区赤坂。 溜池山王という総理大臣官邸の裏手である。
地下鉄の目的駅を降りたったのはいいのだが、地上に出ると自分の居る位置が全く分からない。 時間は丁度昼時で、太陽は真上にあり東西南北もつかめずウロウロするばかり。
やっと見つけたビルに入り用件を済ませた後、渋谷へ向かおうと、アークヒルズとか泉ガーデンタワー、六本木ヒルズなどと、我々にはとんと縁のない豪勢な高層ビルを見ながら六本木通りを歩き、渋谷駅に出た。
二つ目の用件は、武術研究家甲野善紀(よしのり)さんの「身体操作術」という映画を見ることであった。
すべては身体に通じ 身体から日常が変わる
踏ん張らない、 捻らない、 ためない、 うねらない
伝聞なのだが甲野さんは農学を専攻されたものの、自分の納得がいく武術を研究しようと、武術稽古研究会松聲館を設立。 流派や、剣道・合気道といったジャンルに囚われない、古武道という世界から独自の身体操作論を展開しているとのこと。
昨今は、介護の現場で介護する人にとって無理のない、被介護者にとって安心できる操体ができると注目されており、NHKなどの番組でもよく見られるようになり、関連の書籍は書店の棚に多く並んでいる。
映画の中では、ご自分の道場で操体を工夫されている様子や、各地での講演会、そしてフルートやサックス奏者にとって一番演奏しやすい体の置き方やラグビー選手との体の取り回し方を写し、その合間に介護にかかわる岡田さん、出版の足立さん、精神科医の名越さん等が甲野さんの印象や考えをコメントしている。
ボールを抱えているラグビー選手を押さえ込む重量級の選手をいとも簡単に翻してしまう所は何とも面白かった。 他の選手は狐につままれたようなキョトンとした表情をして、何が起きたか状況を掴めないでいた。 100kg前後の重さの選手を動かすなどというのは、彼らにとっても至難の技であろうし、見ている我々にも同じような不思議な所作に感じられた。
古武術の技には、何気ない日常の暮らしを再発見するヒントがたくさん隠れていると、
上体起こし
怪我をしない転びかた
荷物の軽くなる持ち方
添え立ち
なども映像の中で説明されていた。
お話しの中で、無理のない体の操作は美しく格好いいものということ。 確かにスキーヤーの滑りを見ていて、年配者であっても上手な人の滑りは、無理なく格好いい。
スポーツの練習なので、体を壊すとか故障を起こすというのは、体にとって無理なことをしているという話にもうなずけた。
映画の詳細は、「甲野善紀身体操作術」公式HPを!
他に、甲野善紀さんのサイト、半身動作研究会などがある。
甲野さんが推奨されている「なんば歩き」は、以前トライしたことがあるが、なかなか思うように体が動かなかった。
江戸時代の人々は一日に十里(40Km)を歩いたという。 あの時代の人々がどんな歩き方をしていたかを思い起こせばいいかもしれない。 親指を指の中に収めるようにするか、ズボンの端をつまむような感じで手を振らない。 目線は数m先に置き、やや前かがみで倒れこむような感じで歩く。 更に甲野先生の説明にあるように、足裏の垂直離陸というのを次回は試してみたい。 踵から足を落とし、つま先で土を蹴るような歩き方が良いとされた、こういう欧米式の歩き方は日本人の体型に合っていないのであろう。
靴下を長く履いていると、指先とか踵の部分が薄くなってきて、やがて穴が開くことがある。 これは穴が開く所に体重をかけ力を加えていることだと容易に分かる。 体に負担のある歩き方をしていることにつながっている。 昔の人は、現代人が履いている靴より、はるかに粗末な草履で40kmも歩いたのである。 柔な草履でも40kmを歩ける歩き方をしていたわけで、これに倣うのは至極当然の理だ。
映画館で買った小冊子から、もう少し記そう。
まずは、現代の常識をくつがえす甲野善紀語録集
運命は決まっているが、同時に自由である。
私の武術の定義とは矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う。
鎧は持つと重いが、着れば軽い。
小魚の群れが一斉に向きをかえるように、身体の各部を一斉に働かせる。
鍛える事の本来の意味は、やればやるほど丈夫になる事をいう。 ところが、今のスポーツの場合、練習熱心な者ほど体を壊している。 鍛えるつもりがほとんどは、消耗しているんですよ。
いわゆる常識学的な力学とは違う世界がそこにある。
スポーツは、全て起こり(準備)はいるものと考え、それを極力短くしようとは考えるが、起こりそのものをなくすという発想がない。 ではなぜ武術がそれをできるようになったかというと、それは命がかかっていたからだ。
身体の中で滞るところがなくなれば、感情を不愉快にしようとしてもなれない。 だから、身体を通して考えるということはどんな職場の人であれ、どんな立場の人であれ、だれも無関係じゃない。
運転を習うのに鍛えるとは言わない。 そこに発想の違いがある。
人間って実は実際の物を見ているように見えるけど、頭の中で物語と照らし合わせ、辻褄を合わせている。
靴下を破れにくくするには、普段一番擦れるところを絶えず違う面があたるようにしていれば消耗しにくい。 同じところを擦るから消耗する。
駅で列車がぴったり並んで走っていると、なんか止まっているような気がしてくる。 つまり、動きの知覚は相対的なものである。
どこかにすごく無理な負荷をかけたりするからいろんな故障が起きる。 なるべく負荷を全体に散らした身体の使い方で一部に無理がないようにその場その場を対応していく。 その中で最善な選択と思われる組み合わせを常時途切れなく続けられるのが、名人である。
道なき道。 言葉なき世界をこの感覚で。 言葉の及ばない世界は、感覚で進むしかないけれども、感覚は状況により、きわめて騙されやすい。 それでも結局頼りになるのは、自分自身の感覚しかない。
何でも喩えで言われると説得されたような気がしますけどその変は注意して下さい。 自分の頭でよく考えて下さい。 素直に人の言うことを信じるもんじゃないです。
命が大切だということは誰でも言う。 だが、命が大切だということは、スローガンとして言っていては、人の心には届きにくい。 命が大切だということは、人に感じさせなければ意味がない。
最後の言葉は、中高生の自殺や虐めが起きる時に、かならず話される学校長や役人に聞かせてあげたい言葉である。
さらに、冊子には、技を読み解く甲野善紀キーワード16というのがあるが、長くなるので表題だけを記そう。
1.古武術とは?
��.井桁崩し
��.折れ紅葉の手
��.スポーツトレーニングと身体操作術
��.足裏の垂直離陸
��.ナンバ歩き
��.甲野善紀の身体操作術とは?
��.教えないワークショップ
��.人間にとっての自然とは?
��0.浮き取り
��1.科学で解明できない身体感覚
��2.Don't think
��3.もしもジブリがアニメを作ったら
��4.スランプがない!?
��5.居着かない。常に進化する
��6.身体を通して考える
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