今日、臓器移植法案(A案=何でもあり法案)が衆議院を通過したという。 人間の臓器をロボットの部品のごとく安易に取り扱う臓器移植そのものに常々疑問を持っていたので、この法案通過に残念な思いをしている。 唯物史観に根を置く共産党の議員全員が「死生観にかかわる」問題だと採決を棄権したと、そちらの方々に人間的な温か味を感じてしまった。
賛成に投じた263名の議員には、死者の人権を尊重するという意識を持っておられるのであろうか? 足利事件の菅家さんのように冤罪事件の被害者は一向に減らず、警察・検察が功を焦るばかりに逆に増えているようにも思える。 戦後政治の中で、人権に対する一般の意識が高まっているのに、この採決のように実際の立法や行政・司法の場で何ら尊重されていないように感じる。
脳死が宣告され、臓器を取り出す際、臓器提供者の体はかなりの拒絶反応を起こすらしく、体を縛って固定したり麻酔を打つなどの所作が行われるらしい。 つまり脳の一部が機能しなくなっても、体のどこかの部位には意識があり、臓器取り出しに拒否反応を示すわけだ。 もしかしたら、それは、「恐れ」や「悲しみ」といった感情を肉体のどこかで認知するのかもしれない。
巷では、臓器移植で助かる命ばかりが喧伝され、臓器提供によって亡くなって行く人の人格や生命を否定していることに、ほとんどの議員が気づいていない。 「人の死」は、心臓や脳の機能停止だけで判断されるものでない。 体を形成している臓器や肢体などあらゆる部位が人間の生き死に関わっているはずだ。 脳死が宣告されても、人間の五感はしばらく機能していると聞く。 したがい、臨終の場で葬式準備や遺産相続の話などをするのは、黄泉の世界に渡ろうとしている人への冒涜でもあるわけだ。
移植臓器があれば助かる命があると言う人がいる。 しかし、たとえ短命で終わる人生であっても、それに応じた生き方ができれば生きている意味はある筈だ。 「死生観=生き方」を誰もがもっと真剣に考えるべきであると思う。 自分の臓器は物ではなく、自分自身が生きてきた証であり、他人に譲るつもりもなく、万一自分の家族に他人の臓器が必要な状況になっても、延命のために臓器を欲しいとは決して思わない。 それよりも、むしろ残された時間の中で、患者と共にいる時間を大事にし理解し合い、共にいることに感謝するような行動を取って、満たされた心で別れたい。 的確な表現ができないのだが、臓器提供で一生薬漬けで不安な生涯を送るより、その方が余程人間的な尊厳が守られるのではないかと思う。
加速した法案が通れば、臓器移植のために脳死宣告を早める医師が現れるかもしれない。 医者によっては実験を重ね移植技術を高めたいという欲望はあろう。 製薬会社は移植医療に関わる薬剤を試したいであろう。 きちんとした死生観を持たずに、臓器が物のように取り扱われそんなことが行われたら、臓器提供者はそれこそ犬死したとしか言えなくなる。
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