家内の友人が貸してくれた「神の発見」という本を読んだ。 本書は、作家・五木寛之とカトリック教会司教・森一弘との対談をエッセイにまとめたものである。
仏教者である五木寛之がキリスト教についての知識がないと、繰り返す不躾な質問に対し森一弘がひとつひとつ丁寧に説明していく。 そして仏教者とキリスト者としての共通項を見定めていくのが本書であると思った。
森一弘は教会という組織の重職にありながら、その思考は権威主義的でなく曖昧さに溢れているようで、教条的でなく、また原理主義的でもないキリスト者を見た思いがした。
かつてのキリスト教会は、帝国主義侵略の先兵となった布教活動、「神の名」を騙ったパックスアメリカーナ、アフリカ・中東・東南アジアにおける貧困や殺戮に耳をかさない大国の存在などと協調し、その組織は平和を希求していると言いながら相反する位置にあるように思われた。
そして、現代の日本を見れば、国家神道に迎合する高慢なカトリック信者である作家・曽野綾子、はたまた現在の首相である麻生太郎もカトリック信者だそうだが、彼の会社の一つであった麻生鉱業は戦時中に捕虜や韓国人を強制労働に使った疑いがある。 そして、公明党の母体である創価学会や時々物議をかます統一教会とも政治的には近い存在にあるらしい。 このように、我々市井人には思いもつかないような思考をするキリスト教信者は他にもあろう。 信仰と体制や組織を一緒に考えると、物事の本筋を逸れてしまうとは思うのだが、彼等がキリストが願う平和へ真に向いた思考をしているのかはなはだ疑問に思えて仕方ない。
これまでそんなことをぼんやり思っていたのだが、本書を読んで森一弘司教の宗教が持つ曖昧さに何気なく納得できたように感じた。 宗教も時代に応じた姿をしていたのであろう。 その一点を見ただけで弾劾してはならないと思う。 本書は、宗教とは何か、その緒に立つ人にも理解しやすい。 後段の一部を残そう。
五木 それは大いなる誤解だと思いますね。 イスラム教徒のジハードを、テロリストと呼ぶ彼らのこころのなかに、同じように、これはキリストの名によるジハードだ、聖なる戦いだ、自由と民主主義を回復するんだ、抑圧から人びとを解放するんだ、という気持ちがあるからだと思うんです。
森 そうでしょうね。
五木 私は、そういうことだと思うんです。
森 私はその点、日本という文化のなかで育つキリスト教は、他の国々の教会がもっているものとは違う、なにか特別な役割を果たせるんじゃないかなと考えています。 アメリカの教会はアメリカの歴史のなかで、ヨーロッパの教会は、ヨーロッパのいろいろな歴史のなかで育っている。 日本の教会は、また違う歴史のなかを歩んでいるわけですから、世界のキリスト教会に貢献できる、独自のものが育つと確信しています。
五木 ええ。
森 たとえば、前にもお話ししましたが、マザー・テレサは、死んだあとインドで国葬とされました。 ヒンドゥー教の国での国葬でしたが、しかし、葬儀は、カトリックの儀式でした。 彼女は、生前、死んでいく人たちが、イスラム教徒ならイスラム教に応じ、ヒンドゥー教徒ならヒンドゥー教のお経を立てたのです。
五木 個人個人の信仰を大事にしていたんですね。 それは、本人が、こころから自分の信仰を大切にしていなければ、他人の信仰を尊重することはできないことです。
森 本当にそうですね。 従来のカトリック教会だったら、頭から否定されていたことを、マザーは信念をもって実践したんですね。 一人ひとりの人生、人間のいのちが、なによりも尊いという信念です。 そうした信念を支える、神への、キリストへの理解が、彼女にあったと思うのです。
五木 そうですね。 私は最近、既成の情報、常識、哲学などに個人が合わせるのではなくて、自分の生きかた、自分なりの人生観を確立させることが、非常に大切ではないかと考えているんです。 だから、仏教にしろ、キリスト教にしろ、与えられた教義や信仰を、そのままに受け入れるのではなく、自分なりに咀嚼し、自分にあった、自分だけの信仰をつくることが、いちばん大切ではないかと思っているのですが。
森 私も、同じことを、かねがね考えてきました。 これまでの教会の教義として教えられかたをもって、祈って、信仰を育てていくことが大切なのではないかと・・・・・。
さらに、
五木 ああ、光としての神、闇を照らすエネルギーとしての存在ですね。
森 ええ。 私たちを包みこむ、光があるという信仰に徹していれば、私たちの生きている現実も、自分のなかの醜さや、罪深さは変わらなくとも、こころの奥は、穏やかに安らいでいきます。
五木 私たちは、はたして自分のなかに宿る光に、見えざる神を発見することができるのでしょうか。 でも、森さんのお話をうかがっていて、なにか目に見えない希望のようなものを感じることができました。 ありがとうございます。
本書の中で言われているように、信仰は、個人と仏とか、個人と神という対峙した存在でなければならない。 集団や組織を含めて、教えを理解しようとすると、誤った坩堝にはまってしまうであろう。
昨年11月、青山俊董師の講演を須坂で聞いたが、その講演の最後で師は、何世紀にも渉って人々の心に生き続けてきた宗教に触れてほしいと仰っていた。 近代経済の発展の中で割拠してきた新興宗教や新宗教は、人々に平安をあたえる信仰ではないと、彼女は暗に示されていたであろうと思う。 現代にあっては、オウム教のように、その出だしで選択を誤ると人生を棒に振るようなことにもなる。 本書のようなものから、宗教への偏らない良質な理解を得ることをお薦めしたい。
(追記)本書の目次をイメージに落とし追加。
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