昨日は学生時代の先輩を追悼する会に出席した。 場所は東京・信濃町の真生会館。 この場所は40数年前の学生時代に毎日のように通い入り浸った場所である。 当時は木造の建物であちこちに会議室があって、そこで会合を持ったりガリ版で会報作りなどをしていた。 時にはアルコールを持ち寄って騒ぎ、主管からお小言をいただくなど、色々武勇伝もあったようだ。
齢60を過ぎると、鬼籍に入られたと聞くことがどちらでも増えてくるが、そんな往時の仲間からもちらほらそんな便りが届くようになった。 昨日は当初予定されながらも出席できない人が数名いたものの、関西から新幹線で来られた方を含め20名ほどの参集となった。 司式は山本量太郎師。 師の説教の中で、人生を道に喩え、我々は時に引越しをよくするが、最後の引越しが此岸から彼岸に渡ることではないかと説いておられた。 思考の根底に、輪廻とか永遠の命という認識がないと、分かりにくいかもしれないが、死というものはそうたいそうなものではなく、居場所が変わることだけだと、すっと納得できるものがあった。
式後の会食で、仏教とかキリスト教とか色々な宗教があるが、宗教とみるとそこに教義など違いを見出し諍いの元になるが、これは仏道とかキリスト道という生き方として捉えた方がいいのではないかという話もあった。 そういえば、先日、家内が出席した会合でも、三重のある有名な神社の宮司さんが、「神道は宗教ではなく、神の道で言い換えると人の道を示すものだ」と話された由。 特定の宗教を信じると、どうしても他の宗教への排他思想が芽生えて来てしまう。 道の歩き方を示してくれるものとして理解した方が、何の引っ掛かりがないように思えて来る。
会合を終えて、駅前の神宮外苑の表示に、息子家族が住む場所に近いのではと青山一丁目方向へ歩いたら10分もかからないで着いてしまった。 都内は地下鉄など交通機関に溢れているが、意外に歩いた方が近い所もあるものだと知りました。
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