今秋公開予定の映画「100,000年後の安全」を福島原発の事故発生に伴い、急遽短期間の上映を行うというので、昨日は東京・渋谷のアップリンクへ観に出かけて来ました。
映画は、現在フィンランドですすめられている放射性廃棄物最終処分場「オンカロ」という、地下500mの地下都市と思えるような巨大な埋設現場を映し、このオンカロに関わる人々の声や意見を記録したもので、一般人は登場していなかったように思います。
放射性廃棄物は10万年を経ないと安全にならないそうで、埋設して封印しても、危険な埋蔵物だということを伝えることが100年程度の期間であれば可能だが、それ以降の後世の人々に伝わるであろうか、誰にも分からないと言う。 世界で現在使われている主要言語で危険物質であることを記しても、また、絵のような記述をしても、それが10万年後まで通用するかは誰にも分からない。
科学が進歩して、放射性物質を逆に利用できるような技術が産まれるかもしれないとも、またウランが枯渇すれば原発は立ちいかなくなるかもとも、あるいは希少資源であるウランのために戦争が起きる可能性も否定できないと言う。
原発の存在や放射性物質の処分そのものに反対するとか賛成するといった視点ではなく、10万年後の世界まで人類の安全が保障されるものであるか、視聴者に考えてもらうように作られた映画であった。 そういう意味では、鎌仲監督の「六ヶ所ラプソディー」も再処理施設などに賛成する人々や反対する人々の声を同じように伝えていましたが、観客に考えてもらうという視点であるものの、六ヶ所の方が多くの一般人が出ていました。 ちなみに、uplinkでは今「鎌仲ひとみ特集」と題して、「六ヶ所ラプソディー」、「六ヶ所村通信no.4」、「ヒバクシャ世界の終わりに」の3本を上映しています。
キュリー婦人(マリー・キュリー)が放射能を発見して100年ほど。 現在の我々が見通せるのは先々100年までで、それ以降地球上に何があるか、起きるか皆目見当がつかないのです。 地球上には600基ほどの原発が現在あり、中国やインドなど後進国は原発建設を強力にすすめており、この数はもっと増えることでしょう。 そして放射性廃棄物の処分場も数限りなく増えることとなり、地球上に安全な場所を見つけるのは難しくなってしまうと思われます。
やはり原発の要不要、経済活動の必要以上の競争などについて、生命体としての地球をいつまでも生かしていこうという認識で意思の統一をはかるべきだと思いました。 そういう思考がなければ、10万年後になるまでに地球という惑星が存在しない状況になるかもしれません。
アップリンクの上映された映画館の収容人員は45名ほどのようで、しかも古道具屋さんで集めてきたような雑多な椅子で、場所探しにちょっと工夫が入りました。 平日の午前中でしたが、35名位入っていたでしょうか? 皆の関心の度合いは高そうでした。 でも年寄りは少ない。
午後、もう一つたずねたのが銀座のシネスイッチで「神々の男たち」という映画。
1996年、アルジェリアにあったカトリック修道院を舞台に、イスラム教の住民と共生し、診療活動などをしていた所に、内戦が勃発しイスラム過激派が台頭して来る。 過激派の仲間の怪我を治癒してほしいと依頼があるも、薬品は住民のためにあると断り、以後修道士同士がここに残るか去るか話し合う。 結局、全員残ることで団結するのだが、過激派の仲間の釈放をフランスに要求するために拉致され、結局は殺されてしまうのであった。 修道士二人のみが拉致されずにすみ、そのうちの一人は未だ健在である由。 実際の事件に基づいているものの、事件の詳細は分かっていないらしい。
「最後の晩餐」を模したと思われる場面での一人ひとりの修道士の笑顔がすばらしく、バックに流れる「白鳥の湖」が心に沁みて来た。 「生きること」、「共にあること」を教えてくれる映画だと思った。
フランスでも、キリスト教や教会などは年寄りのためのものであり、冠婚葬祭のためのものという意識が強いように聞いたが、こういう意味深い映画を作る所に、フランス人というか西洋文明の凄さを感じた。 これまでフランス映画とかフランス語に対し、何か鼻にかかったような軟弱な印象で自分には合わないものと思っていた。 しかし、数年前にサンチャゴ・デ・コンポステーラへのカミーノを歩き、たくさんの教会を訪ね、聖歌を聞くにしたがい、非常に親しみを感じるようになった。 この映画でも、「白鳥の湖」以外は全て聖歌でアカペラで歌われているもので、それらが聞けたのも良かった。
この所、地震や原発被害、国民をなおざりにした政府の対応など、悲哀を味わう日々の連続でしたが、人間の崇高な一面を思い起こさせてくれた2時間で、何かやすらぎさえ感じられるものでした。
映画を見終えて、銀座4丁目の交差点に立つも、どことなく銀座の賑わいがなく、火の消えた町のように思えました。 和光のショーウインドウもほとんど飾りがなく、日産自動車の建物前も車の展示がなく、リニューアルされたらしい三越も照明を落としているので、華やかさが全くありませんでした。
被災者の気持ちを共有しているということなのでしょう、この光景が被災に会わなかった多くの日本人の思いを現しているのではないかと思えました。
「神々と男たち」映画評 ー 映画館に掲載してあった記事を撮って、判読が可能だったものです。
◯東京新聞
0 件のコメント:
コメントを投稿