昨日か一昨日か、未成年で脳死になった人からの臓器移植を行ったような報道が流れていました。
臓器提供を待つ重症患者のことを、「かわいそうだ」「早く治してあげたい」などと、よく話題になることがありますが、臓器などはロボットを構成しているモーターや電池などと同じものではありません。 「心身ともに」という言い方をしますが、その人を作っている要素は肉体であり心なのです。 それらを切り離すことはできず、生物的に肉体が滅んだとしても、その人が生きてきた証だと思うのです。 脳死や心肺停止になったからと、取り出して臓器を待つ患者に移植するというのは、ある部分殺人行為ではないかと思われます。 人間は死んでも、ある種の神経はしばらく生きているそうで、内蔵摘出をしようとすると、目から涙をながすとか拒絶するような反応があるそうです。
そうでなくとも、心肺停止や脳死が宣言されてから生き返った例はいくつもあるようです。
臓器摘出は、その人の人格を全否定するような行為だと思うのです。 臓器移植に賛成される方々はよく「救える命がある」というような表現がしますが、他人の臓器に頼ってまで私は生きたいと思いません。 不治の病で若くして亡くなるというのも、その人の人生だと思うのです。 逆に、より良く死ねるような環境を周囲が作るべきなのです。
医療の現場では、先端医療に挑戦している医師はたくさんおられるでしょうから、自らの医術進歩や興味から、率先して臓器移植をしたいのでしょう。 彼らにとって臓器はモノでしかないのです。
「ご臨終です。 今なら救える重症患者がいるのです。 助けてあげて下さい」と医者から言われれば、悲しみにくれる家族は医者の言いなりになってしまうことでしょう。 私は、人から臓器をもらうつもりもないし、差し上げる気持ちもないので、ノン・ドナーカードを常に所持しています。
これは、大本教(宗教法人大本)はかつてより臓器移植に反対されているそうで、教義の内容は分かりませんが、ノン・ドナーカードを配布されているというので以前送付していただいたものです。
臓器ネットにアクセスすると、臓器提供移植に関する意思登録ができるようですが、反対しているのに敢えて登録する必要もないでしょう。 遺された家族が迷わないように、ノン・ドナーカードを常時携帯している方が大事なように思えます。
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