一昨日、横浜山の手にある神奈川近代文学館で開催されている「開高健の世界」を観て来た。
開高健という人物については、ベトナム戦争反対運動に関わっていたジャーナリスト、あるいは世界をまたにかけた冒険家という印象しか自分にはなく、これまで著作を読んだこともなかった。
文学館に入るとまず大きなスクリーンがあって、そこでは1965年2月に開高健がサイゴンに飛んで、週刊朝日へ国際電話で記事にすべく報告している様子(音声と別の写真や動画を合成したもの)を写していた。 ジャングルでは数メートル先が全く見えず、そんな中でベトコンに追われ、カメラマン秋元啓一と死を覚悟してお互いに遺影の写真を撮ったと、その写真も掲示してあった。
コピーライター(寿屋)や作家生活、ベ平連活動やベトナムからの報告、そして釣りなど自然との関わり、の3部で展示は構成されており、開高健の人となりがよく理解できるものであった。
1965年8月「戦争と平和を考える」というティーチインが開かれたと記述があったが、家内はこのティーチインに参加したことを覚えていると言う。 詳細な記述はなかったが、天皇の戦争責任に関する発言があったためテレビでの放映は打ち切られたとあった。
ベ平連ニュース
1965年11月16日 ベ平連のベトナム反戦広告をNewYork Timesに掲載。
彼は、小田実とともに 市民 ー 人間を想う真のジャーナリストであった。 今日テレビによく顔を出したり、よく本を出す有象無象の自称ジャーナリストがいるが、ほとんど態勢に迎合した者ばかりで、ジャーナリストなどというのは実におこがましい。
「戦争に勝利者はいない」
という彼の言葉(アメリカ軍曹長が言った)は実に含蓄があり、重いものがある。
「声の狩人」から
アイヒマンは
釈放すべきであった。
ぜったい、生かして
おかねばならなかった。
生かして、釈放し、
彼自身の手で
彼自身の運命を
選ばせなければ
ならなかった。
焼鏝を用意し、
彼の額に
鉤十字を烙印して
追放すべきだった。
「輝ける闇」から
徹底的に
正真正銘のものに向けて
私は体をたてたい。
私は自身に形をあたえたい。
私はたたかわない。 殺さない。
助けない。 耕さない。
運ばない。 煽動しない。
策略をたてない。
誰の味方もしない。
ただ見るだけだ。
わなわなふるえ、眼を輝かせ、
犬のように死ぬ。
「出版人マグナ・カルタ9章」
・読め。
・耳をたてろ。
・両眼をあけたままで眠れ。
・右足で一歩一歩歩きつつ、左足で跳べ。
・トラブルを歓迎しろ。
・遊べ。
・飲め。
・抱け。 抱かれろ。
・森羅万象に多情多恨たれ。
残念なことに1989年に58才で他界し、今は鎌倉・円覚寺に眠るとのこと。 その後、一人娘さんも奥様も亡くなり、現在は茅ヶ崎の自宅が開高健記念館として公開されている由。 「開高健」など新書版を数冊購入して来たので、彼の人となりをその行間からじっくり学ぼうと思う。
さて、8月1日まで開催されている会場の神奈川近代文学館は、港の見える丘公園の一角にあるが、その一方に「愛の母子像」が立っている。 1977年9月横浜市緑区荏田町(現青葉区荏田北)に米軍機が墜落し、母親と幼い子2人が犠牲になったもので、後世の人々に思い出してほしいと建てられたものであろう。
戦後60余年、駐留米軍の戦闘機による事故は、基地が集中する沖縄のみならず、このようにあちこちで起き、その度に市民が犠牲となって辛酸を舐めさせられている。 米軍基地は全く不要な存在で、これが無ければ、日本の国家財政は潤沢だし、中国や北朝鮮との争いも少なくなることであろう。 愚かな御用学者や内閣官房費を貰い政府に迎合するジャーナリストは早々に去ってもらい、開高健のような真のジャーナリストを市民が見極め、彼らの言葉を聞くことを是非願うものである。
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