昭和31年、4ヶ村が合併して信濃町となる直前に出来た、柏原の信越病院近くにある信濃村伝道所は、これまでその名を残していたのですが、今日、正式にその名を信濃村教会に変更しました。 従前と同じ名前を残したいとか、信濃町教会にすると東京・信濃町にすでにある教会と同じ名前になってしまうと、教会員の方々は色々苦労されたようで、これまでの名を一部残そうと信濃村教会にしたそうです。
教会に関心の無い方には興味もない話題でしょうが、この信濃村教会の建物は、メンソレータムで有名な近江兄弟社を設立したウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計したもので、他に信濃町には国際村の教会や講堂でその作品が残っています。 軽井沢にも彼の建物が残っており、その多くの作品を残そうとナショナルトラスト運動もおき、その流れでしょうか長野県も信濃町に実態調査に来られているそうです。
信濃村伝道所の前身の教会堂は個人宅を利用し、今でも古間の一角に残っており、大正時代に宣教で来られたアルフレッド・ラッセル・ストーン師は、貧村の地にルバーブやブルーベリーを紹介し、電動による鎌工場(組合)の設立などにも尽力されたのでした。 そのストーンさんは、昭和29年の洞爺丸転覆事故で亡くなられたのですが、その補償金(生命保険金?)で現在町田市にある農村伝道神学校が建てられたと、先日富山での三浦綾子読書会で初代秘書・宮嶋裕子さんからうかがいました。
三浦綾子さんの朝日新聞懸賞小説に入選した「氷点」は、中盤にストーンさんの事故についての記載がありますが、入選作品には当初入っていなかったそうです。 また、小説の最後に主人公・陽子は死ぬようになっていたのですが、新聞小説として書き直す時に、ストーンさんのことを書き加え、主人公が重症の床にある所で終わるようにした(結果、「続氷点」が著された)そうです。 で、小説「氷点」での救い(のテーマ)は、中盤にある、このストーンさんの姿にあるとのことです。
ストーンさんは、野尻湖畔に立派な山荘がある東洋英和学院とも関わりがあり、そのお墓は東京の青山墓地にあるそうです。
今や、過疎に喘ぐような信濃町ですが、よく見るとストーンさんやヴォーリスなどが遺してくれた宝がたくさんあるんですね。 もっともっと大事にして行きたいと思う、信濃村教会発足の日でした。
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