今日は日曜日。 主なキリスト教徒は主日と称し礼拝日として教会に集う日である。 私はそういう信者とはかなり距離を置いた人間なのだが、思考(思想)的には多くが納得できるものと思っており、夏場には知人に会えることもあって教会を訪ねることが多くなる。 今日はまず野尻湖畔のカトリック教会へ出かけた。
ミサの間の聖書のくだりは、「~尽きることのない富を天に積みなさい。 ~ あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」、そして「~あなたがたも用意をしていなさい。 人の子は思いがけない時に来るからである。」 であった。 説教では、自分のために富を貯めるのではなく、人に与える心が必要だと、そういう心が人を愛することにつながり、平和な世界を築く砦になるという。 (たぶんそうだと思う。 聞いた時はなるほどそうだと思うのだが、どうも時間の経過と共に記憶があいまいになってしまう。)
次に訪ねた日本キリスト教団信濃村教会では、同志社大学名誉教授であり、国際村に山荘をお持ちの深田牧師が特別説教をされた。 説教のタイトルは、「一つ目小僧か、千手観音か」。 これまで深田牧師とは何度か食事をご一緒させていただいていたが、その時のフランクな会話の続きのような話し方で、堅苦しい話が全くない。 世界中を回っているという人間の体の構造を展示している「Bodies」という展示会の話から、その説教は始まった。 人間の体の機能からはじまって、一つ目小僧的見方では近視眼的で人間関係において何も生まず、千手観音のように幾つもの手を広げ、バランスの良い態様の中で人を受け入れる心が大事だと仰っていた。(このお話も、たぶんそうだと思う。)
先日、ダライ・ラマ法王の話を聞いたが、法王も「利他の心」をさかんに強調されていた。 「他者のために働け」という宗教観はキリスト教でも仏教でも同じなのであろう。 そこに争いのない平和な世の中、安心して暮らせる社会を作る元があるというわけだ。 そういう意味では、自分の富や利益を願う、昨今の新興宗教や新宗教は真っ向から反対の位置にあり、それがために争いを生む火種を作ることになる。 日本では宗教団体が特定の政党を支持したり、自分達のための政党を作ったりしているが、これらは「利他の心」とは全くかけ離れた行為である。 自分達の権益を強めるための宗教は本来の宗教ではなく、ヤクザの利権争いと何ら変わらない。 現代人は金や力ではない、もっと崇高な視点での宗教観を持つべきだと思う。
信濃村教会の礼拝のあとは、ミニバザーが開かれました。 教会員の方々が準備をされ、夏休みに国際村に来られている方々、そして我々のように知己をたより思い立って訪ねる人など、たくさんの方たちが来られ、賑わっていました。 町内より安いルバーブやトマト、手作りクッキー、冷凍マンゴーなどなど、 食事は例年のようにカレーに焼きソバ。 テントの中とはいえ、焼きソバ作りは大変熱い作業であったでしょう。 それぞれ美味しく頂くことができました。 コーヒーも美味しかった。
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