小林一茶の故郷である信濃町(柏原)には一茶を顕彰する一茶記念館がありますが、こちらでは一茶に関連した講座が年4~5回行われています。 なかなか日程が合わず出席できないことが多いのですが、今日の講座は原子朗さんによる「一茶と賢治」でした。 早稲田大学の名誉教授である原子朗さんは、花巻の宮沢賢治イーハトーブ館の館長を昨年まで務められておられたそうで、「宮沢賢治語彙辞典」という50年間かけて完成させた大作(出版物)もあります。
原さんの講演は、やはり一茶記念館で2004年にも聴いており、話の内容の豊富さ、面白さと同時に、過去の戦争に対する認識も明確であり、ある種の正義感も感じられ、今日の日は絶対逃さないようにと思っていました。
齢87とのことで、いまだ矍鑠としておられましたが、やはり7年前に聴いた時とはだいぶ違うなという印象でした。
挨拶の後、最初に原さんがお話されたのが会津八一。 原さんは会津八一が昭和20年に早稲田大学を退官する最後の生徒であったらしい。
原さんは講演の際、黒板やホワイトボードの代わりに、大きな白紙を張って、そこに筆で説明事項を記しています。 会津八一が好きな家内は、原さんの書体が会津八一に似ていると言います。
私は、書かれた文字の中で、「文化」という書が一番いいなと思いました。 今秋10月か11月に、原さんは東京・銀座で書展を開くとのことで、案内状の送付をお願いしました。
講演の内容は、原さんが研究されてきた宮沢賢治と小林一茶の同一性というか庶民性というか、あるいは共時性といったものをそれぞれの作品から説くものであったと思います。 それぞれ生きた時代も、俳諧と詩という分野も異なっていましたが、想いは一つということなのです。
最後は、スピノザとか曼陀羅、ユングや南方熊楠といった、若かりし頃に聞きかじった人物や事柄も出てきて懐かしさもありました。 原さんは話しだしたら6時間あっても足らないと仰っていましたが、2時間のお話では、私の理解はまだ微々たるもので、賢治と一茶にもっと触れなければという想いだけを強くしました。
たぶん質問者はご存知で問われたのでしょう、北信五岳の一つである斑尾山の名は、「曼陀羅御山」から転じているとのこと。 木曾の御岳(御獄)山などと同じように斑尾も信仰の山であったんですね。
原さんのお話はあちこち飛んで、まとまりがないようでまとまっていましたが、宮沢賢治をはじめ日本の文化人の多くは30歳代に亡くなられているものの、後世に大きな作品というか思想を残されている。 現代人の余命が70とか80とかに伸びているが、もう歳だからと弱音を吐いたり、テレビや新聞、はたまた広告に翻弄される人生ではなく、自分の意思で生涯を切り開くようにしなければいけない、という説には共感するものがありました。
書き終わると思い出したように追記していますが、古間鎌の鍛冶作業の動力化、ルバーブやブルーベリーの生産などに力を注いだ宣教師ストーンさんの助手を原さんは一時していたとのことです。 海外から届くメールの翻訳などをされていたようです。 ストーンさんは信濃町のあと北海道へ農村伝道に行かれ、その際青函連絡船・洞爺丸の沈没事故で自分がつけていた救命具を女性に渡し、泳げないストーンさんはそのまま海の藻屑と化しました。 三浦綾子さんの著作「氷点」にもその件が記されています。 賢治や一茶からストーンさんに繋がるなんて、不思議な縁を感じるものでした。
またまた思い出しました。 小林一茶の母親の里は「宮沢家」なんですね。 宮沢賢治との縁がそんな所にもあるのでは、という原さんの最後のオチでした。